平成30年の今年は明治150年に当たるため、演劇では明治維新関連とりわけ西郷隆盛が数多く取り上げられています。NHK大河ドラマの「西郷どん」、3月の新橋演舞場は西郷隆盛と勝海舟の会見をコメディタッチで描いた「江戸は燃えているか」そして4月の歌舞伎座昼の部は「西郷と勝」でした。

この「西郷と勝」というお芝居は、慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに勝利し勢いに乗る薩長を中心とした官軍が江戸城に迫り3月15日を総攻撃の日と決めるのですが、江戸150万の民衆に降りかかる災厄と日本の植民地化を狙う欧米列強の野望を阻止するためにも官軍方西郷隆盛と徳川幕府方勝海舟が江戸城無血開城を話し合いの末決め江戸を戦火から救うことになる歴史的な会談を取り上げた大正15年初演の作品でした。大正15年といえば明治維新から60年足らずしか経過しておらず(昭和20年の終戦からすると平成16年ごろの感覚でしょうか)、新選組古参隊士の生き残り斎藤一や永倉新八が(畳の上で)亡くなったのが大正4年ですから当時の年配者の脳裏にはまだまだ明治維新の混乱が焼き付いていてもおかしくない時期に歌舞伎として西郷隆盛と勝海舟の会談を取り上げたのです。

“圧勝したなら寛大に”とは19世紀のドイツの宰相オットー・フォン・ビスマルクの信念です。戦争に圧勝すると驕り高ぶった勢いで敗者の名誉を踏みにじったうえ過酷な要求を突きつける場合が多いのですが、それでは将来に禍根を残してしまうので敗者の名誉を重んじながら寛大に対処すべきだという意味です。

慶応4年の会談の際に西郷隆盛がこのビスマルクの言葉を知っていたかどうかはわかりませんが、西郷の勝に対する対応はまさにその通りでした。歴史にイフはありませんが、もしこの会談が決裂して官軍と幕府方の戦闘になると江戸は火の海となり欧米列強の干渉を招いてその後の歴史が日本にとって悪く変わっていた可能性は大きいと考えられますので、西郷と勝の良識が日本を救ったと言えるかもしれません。

お芝居の中のセリフは原作者真山青果の創作でしょうが、実際ホントに西郷と勝の二人が発言したのではないかと思われるぐらいに全く違和感なく我々観客の耳に響きました。 勝者の驕りを寸分も見せず幕府方の苦衷を思いやりながら官軍側の考えを西郷の口から伝えた時に、勝は一言「勿論(お受けします。)」と答えると、西郷は「江戸の処分はこいで終わった。」と豪快に笑い、江戸城総攻撃中止の伝令を部下に命じます。まさに江戸そして日本が救われた瞬間でした。私は西郷隆盛と勝海舟のこの会談が後世の日本人によって(特に東京の人達に)もっともっと高く評価されてしかるべきだと思っています。

この会談は、日本画家の結城素明による“江戸開城談判”という有名な絵に残されていますが、西郷と勝の日本の行く末を思う気持ちがにじみ出てくるような傑作だと私は感じています。

それにしても西郷役を演じた尾上松緑のそっくりだったこと!(もちろん西郷さんの顔は写真や絵などでしか知りませんが)松緑の顔にはあまり西郷のイメージが重なりませんでしたが、舞台に出てきたときの顔は“アララよーく似ている!”とちょっと感心したほどです。まあ歌舞伎役者の舞台の顔というものは(超厚化粧のおばちゃん方をはるかに上回る)実はピクチャーですからね。西郷さんの顔はぎょろ目で横一文字の太い眉毛など非常に特徴だった顔立ちなので、誰が演じても上手にメイクすればよく似た顔になるのかもしれません。

この会見から37年後の明治38年1月、日露戦争時にも歴史上有名な会見がありました。 旅順要塞を攻撃していた日本軍第三軍司令官乃木希典(のぎまれすけ)将軍と、要塞を守備していたロシア軍のアナトリー・ステッセル将軍によるロシア軍降伏に関する世に言う“水師営の会見”です。日露戦争関連の小説や映画などには必ず取り上げられる名高い会談です。

旅順のロシア軍降伏の報に接した明治天皇は「武人の名誉を保たしむべし」との聖旨を与え、通常の場合は降伏した側の帯剣は許されないのですがステッセル将軍は正式な軍装のうえ勲章もつけ帯剣も許されて会見に臨んだといいます。水師営にはアメリカの従軍映画技師もいて会見の模様を映画撮影したいと申し出たものの、乃木将軍は「敗軍の将に恥辱を与えることになるから」とこれを許さなかったために、日露両軍の将官たち11人による一枚の記念撮影の写真だけが残されることになります。乃木将軍のステッセル将軍に対する“武士の情け”はこの記念写真とともに全世界に報道され多くの人が感銘を受けたと言われます。人格者乃木将軍には“ウケを狙う、奇をてらう。”という意識は当然の如く露ほどもありません。今思うと残念ながらとしか言いようがありませんが、この水師営の会見が映画撮影されていれば尚更乃木将軍の仁愛が伝わって、より感動的だったに違いありません。

ロシアに帰国したステッセル将軍の晩年は不遇だったようですが、「自分は乃木将軍のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない。」と繰り返し語っていたそうです。司馬遼太郎の小説では“ここまで書くか!”と義憤にかられそうになるほど乃木将軍を愚将扱いしていますが、極めて不当だと私は考えています。

※中段左から二人目:乃木将軍、左から三人目:ステッセル将軍

奇しくも水師営の会見からまた37年後の昭和17年2月、長い間大英帝国による東洋支配の象徴だったシンガポール要塞を攻撃する日本軍第25軍司令官山下奉文(やましたともゆき)将軍とこれを守備するイギリス軍アーサー・パーシバル中将との間でイギリス軍降伏に関する会見が要塞近くのフォード自動車工場の一室で行われました。山下将軍の脳裏には当然に西郷・勝の会談と水師営の会見があったはずです。山下将軍自身武士の情けをもってパーシバル中将に接するつもりだったようですが、緒戦の勝利に酔う軍上層部と追随する報道関係者がそれを許しませんでした。

日本ニュース映画社が撮影した会見の模様のフィルムが残っています。太って堂々たる体躯の山下将軍が痩せこけて神経質そうに眼をしばたかせるパーシバル中将に対して「降伏するのか?イエスかノーか‼」との発言が、ナレーションによって恫喝風に脚色され軍刀に左ひじを乗せて傲然とパーシバル中将をにらむ(ように見える)映像は日本をはじめ全世界に報道されます。そこには山下将軍の意図とは全く違った勝者の驕りが色濃く表現されてしまい日本国民は熱狂し山下将軍は戦時日本の英雄となります。しかし仁愛と寛大さとはかけ離れたこのフィルムが独り歩きしてしまい、乃木将軍のような世界の支持・感銘を集めることにはならず、逆にイギリスからの憎しみにさらされることになった山下将軍は日本敗戦後の戦犯裁判で(パーシバル中将による助命嘆願もなく)昭和21年2月絞首刑となります。

※左端:山下将軍、右下:パーシバル中将

モノ言わぬたった一枚の絵と写真が仁愛と寛大を雄弁に物語り、動画としてのフィルムが編集者の意図によっていとも簡単に当事者の本心を捻じ曲げてしまうという皮肉な結果を招いたことは、思えば不思議なものです。

 

“圧勝したなら寛大に”とは、言うは易く行うは極めて難しいことのようです。まもなく アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金委員長の朝鮮半島非核化に向けた会談が行われる見通しなのだとか。この二人に果たして西郷と勝あるいは乃木将軍とステッセル将軍の役割ができるのかどうか、両者共どうも役者が不足なような気がしてなりません。後世、お芝居に取り上げられる可能性はきっとありませんね。