平成24年10月の日曜日に秋田市千秋公園内にある、平野政吉美術館を見学してきました。

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前日の土曜日は角館にある平福百穂記念美術館を訪れましたので、二日連続で芸術の秋を堪能してきました。

秋田の素封家の平野政吉さん創立の平野政吉美術館は藤田嗣治画伯の作品を多く所蔵するほか、ピカソやゴヤ、ゴーギャンといった有名な画家の作品もたくさん所蔵していますが、なんといってもこの美術館のメイン展示品は藤田の手になる横20m、縦3.6mもの東洋最大の壁画「秋田の行事」で巨大な格納庫のような部屋に展示され2階からも鑑賞できるようになっています。

昭和50年代後半、私がまだ監査法人勤務の時に某銀行秋田支店の監査にお伺いした際に、K支店長のご厚意で平野美術館を見学させていただいたことがありました。そのときこの「秋田の行事」という壁画を前にしたときの感動は忘れられません。

あまりの迫力にまだ20代だった私は呆然とその場に立ち尽くしたのを昨日のことのように覚えています。

その時に「一生の間にもう一度この美術館を訪れて再度この壁画を見たいものだ!」と思ったのですが、それが30年の年月を超えてようやく実現することができました。そして変わらぬ迫力と感動が伝わってきたのは言うまでもありません。

藤田嗣治は日本よりも海外で評価の高い画家です。

軍医の息子に生まれ比較的裕福な少年時代を過ごした嗣治は、東京美術学校を卒業後さらに絵を勉強するために大正2年フランスのパリに渡りパリ南西部の丘陵地モンパルナスにアトリエを構え、若かりし頃のピカソやモディリアニ、ルノアールらと親交を結びます。

努力の甲斐あってパリでの藤田の評価はきわめて高くフランスのレジオン・ドヌール勲章やレオポルド一世勲章を受章し充実した日々を過ごしました。

しかし藤田の容貌や奇行、結婚離婚を繰り返す女性遍歴のせいか、遠く離れた日本画壇や日本での評判は芳しくありません。

昭和11年帰国し翌昭和12年2月から3月にかけて平野政吉さんの米蔵で「秋田の行事」を製作します。この年の7月に盧溝橋事件に端を発した日中戦争がはじまり日本は戦争一色に染まっていきます。

そして日本陸軍や海軍の依頼を受けて戦争画の製作に没頭し「シンガポール最後の日」、「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」などの秀作を残し、やっと藤田はまさに生涯で初めて日本画壇の寵児になるのですが、その期間は昭和20年の敗戦までのほんの5年程に過ぎませんでした。

敗戦後、戦争責任を巡る議論が本格化すると日本美術会は藤田を筆頭とする戦争責任者のリストを作成(非公開)し藤田を戦争協力者として糾弾するのですが、藤田は戦争画を描いたことを恥とも占領軍から責任を追及されるものとも思っていませんでした。

藤田の戦争画は14点に過ぎませんが「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」はどのように見ても戦争賛美の絵とは到底思えず、それどころかその悲惨な構図からはかえって反戦画とすらいえるものではないかと感じられます。

敗戦の混乱のさなか、占領軍GHQに対する恐怖から日本画壇は自分たちの保身のために占領軍に差出す生贄がほしかったのではないかと私は考えています。

敗戦後、手のひらを返すように自分に冷たくなった日本と日本画壇に嫌気がさした藤田嗣治は昭和24年に逃れるように日本を出国し、アメリカ経由で青年時代を過ごしたフランスパリに住居を構え昭和30年にフランス国籍を取得し日本国籍を抹消します。

そして洗礼を受け尊敬する画家レオナルド・ダ・ヴィンチから取ったレオナルド・フジタとなるのです。

日本での評判は誤解に基づくものも多く相変わらず芳しくはなかったのですが、精力的に絵を描き続け、その後はついに一度も日本に帰国することなく昭和43年1月チューリッヒで亡くなります。

藤田は言います。「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ。」と。

私には日本と日本画壇とそして時代に翻弄されたフジタならではの悲しい叫びに聞こえます。

あふれる才能と凄まじい努力とを投じて絵を描くことに没頭し数々の傑作を残しながら、日本ではついに自身が望むような評価を得るどころか、石もて日本を追われる如く晩年をフランスで過ごさねばならなかった藤田嗣治が哀れでたまりません。

平野政吉美術館にはゴーギャンの描いた「ガッシェ氏像」もありました。

精神を病んでいたゴーギャンのかかりつけの精神科医だったガッシェ医師の肖像ですが、30年前に初めて訪れてこの絵を見たとき「ああ今から100年余り前にこのような顔立ちをした医者がフランスにまさに存在していたのだな。」と思ったものです。今回その絵と再会することができ変わらぬ風貌(当たり前!)に涙が出そうになりました。

ガッシェさんは、まさか100数十年後に遠い異国の日本でこのように自分の肖像画を見て感動してくれる人が存在するとは夢にも思わなかったはずです。(これも当たり前!!)

また昭和10年に夫人と共に藤田が北京に渡った際に描いた「力士像」も有名な平野美術館所蔵の作品です。

相撲の力士というよりは中国人の(少し年齢のいった)格闘家をモデルにしたもので隆々たる筋骨と他を圧するような太鼓腹をした力士三人が描かれています。

過去の格闘の証か 三人とも鼻と耳は潰れ、顔は怒っているかのように鋭く、見るものを睨みつけていますが、年齢的にあと何年格闘家を続けられるかという不安もその目の奥に潜んでいるような気がして、私には悲しい絵に思えてなりません。

この三人の中国人力士もこの絵に描かれたような風貌で確かにこの世に存在していたはずです。

格闘家という職業から体を壊したり怪我をする可能性が高くガッシェ医師よりは不幸な晩年を過ごしたのかもしれないなどと思いました。

藤田嗣治の一生に思いを馳せながら10月の絶好の観光シーズンというのにほとんど見物客のいない平野政吉美術館でじっくりと心ゆくまで藤田作品を堪能できたことは嬉しい限りでありました。