平成19年8月21日当地石巻市民会館にて井上ひさし作“円生と志ん生”というお芝居が角野卓造さん辻萬長さん主演で公演されました。
昭和12年創立の老舗劇団文学座幹部の角野さんとは二年ほど前泉ピン子さんの楽屋でピン子さんにお引き合わせいただいて以来交流があり、なんと公演後我が家にお寄り下さることになりました。ミーハーの私はもう天にも昇る心地!

落語家の三遊亭円生と古今亭志ん生は(比較的遅咲きではありましたが)人気実力を兼ね備えた昭和の大名人ですが、このお芝居は昭和20年の終戦直前酒がふんだんに飲めるというのを志ん生が聞いて東京に家族を残し10歳年下の円生とともに満州に関東軍の慰問に行くのです。しかし程なく敗戦、日本に帰るまでの苦難の二年間を描いたお話です。
私は落語も大好きで一番の贔屓が志ん生で二番目が円生でCDやテープは繰り返し聞いていますし、昭和の歴史(特に軍事関係)は詳しいのでこのお芝居は大変面白く見ることができました。しかし昭和の歴史(特に昭和20年前後の)と落語に疎い或いは興味の薄い人にとっては結構わかりにくいお芝居だったような気がします。

さて夜9時過ぎに公演が終了した後角野さんを車で我が家にお連れし、寿司をつまみビールを飲みながら芝居の話に花が咲き、ほんのひと時のつもりが二時間近くもご一緒することができました。

角野さんは顔の大きい人ですね。共演の辻萬長さんにいたっては顔と胴体と足がそれぞれ同じ長さじゃないかと思われる位(つまり3頭身!)顔が大きかったです。“舞台顔”といって顔が大きいほうが舞台映えがするので舞台俳優は皆さん大きい顔ばかりです。そういえば歌舞伎役者もみんな顔が大きいですね。数百年の伝統がそのように造りかえるのでしょうか。
角野さんは役柄も“渡る世間は鬼ばかり”の泉ピン子さんのご主人役など気の弱そうな人の好い役柄が多いように思いますし、目元の笑いじわもやわらかい感じを与えます。しかし間近く見る角野さんの目の奥は柔和なときもありますが決して笑ってはいません。特に芝居を語るときは熱く鋭い感じすらあります。角野さんは見た目の印象で人のいい役柄ばかりが多いというのはこちらの先入観で、実はどんな役でも全く違和感なく演じ切れる手練れの役者さんです。きっと詐欺師や悪役なども似合うのではないかと思います。役柄を触媒にして様々な人物を演じることができて嬉しいと語っていました。

昨年東京の新国立劇場で日本陸軍の参謀役を演じたとき劇中劇で昭和天皇役を演じたのですが、まさに角野さんに昭和天皇がのりうつられたのではないかとの錯覚すら覚えました。この点角野さんは実在の人物を演じる際は、まったく似ていないのは変だが、役者は物真似ではないので声色まで似せる必要はなく雰囲気を似せるべきというようなことも語っていました。

平成9年4月4日に満91歳で亡くなった杉村春子さんは長い間文学座のトップであり続けましたが、私は亡くなる数年前にサンシャイン劇場で杉村春子主演の“華岡青洲の妻”を見ています。終演後のカーテンコールでファンから手渡された花束を舞台上からしゃがんで受取った杉村さんが疲労からか立ち上がれなかったのです。共演の俳優が手を取ってあげたことがありました。角野さん曰く晩年の杉村さんは年寄り扱いされるのが嫌で共演者から手を差し伸べられるのを強く振り払っていましたが、最晩年は逆に手を差し伸べてくれるのを待つようになったと言ってました。

角野さんはそれに続けて、「私の一番好きな言葉なんですが」と前置きしながら“御恩送り”という言葉について語ってくれました。どこの劇団も経営的には楽ではないのですが、杉村春子さんは地方公演やテレビ出演などで稼いだ金をほとんど文学座に入れて劇団を運営していたのだそうです。しかし角野さんはじめ当時の若い俳優らはそのことに気がつかず、杉村さんが亡くなって自分たちが運営するようになってはじめて気がついたのだそうです、その恩を返すべき杉村さんはもうこの世にはいません。そこで幹部になった自分たちが今度は文学座にお金を入れ杉村さんに返せなかった恩を若い座員たちが資金繰りを気にすることなく芝居のみに打ち込める状態を作り続けることで恩返しをしようとしているのだそうです。これを御恩送りと表現したのは、作家の井上ひさしさんの造語のようでが、「何十年後かに今の文学座の若い俳優たちもこのことに気がついてくれることを願っている。」とおっしゃっていました。

役者さんは身体が資本です。舞台やテレビで全く老け役をやらない森光子さんが身体を鍛えているのはよく知られていますが、角野さんもご自分の誕生日近辺に泉ピン子さんの(ホントの)ご主人であるお医者さんに身体のすみずみまで検査してもらうそうです。
そのお芝居の主役級の人が急病などで舞台に上がれないとき欧米の演劇では必ず(リスク管理として)予備の俳優を揃えているが、日本ではそれがほとんどないのだそうです。つまり日本では主役級の俳優が倒れた場合お芝居そのものが休演になることがあるのです。私もこれまで一度だけ主演女優急病のため休演になってチケット代が払い戻されたことがありました。例えば角野卓造さんが倒れた場合、たとえ代役を立てたとしても観客は角野卓造の演技を見に来ているという感覚で代役では納得しないと演劇関係者は考えているのだそうです。そのため各役者さんの健康管理面の責任は重大です。角野さんは公演期間中は気が張っているからかほとんど風邪などは引かないのだそうですが、その年の全ての公演日程が終了した年末などに突然熱を出して数日寝込むことがよくあるそうで、身体も休めという指令を出して公演期間中休まないことのバランスを取っているのだろうと言っていました。