( “無法松の一生” その三 )

岩下俊作の小説“無法松の一生(富島松五郎伝)”における富島松五郎と吉岡大尉夫人の関係は、谷崎潤一郎の小説“盲目物語”の座頭弥市とお市の方の関係にそっくりです。また松五郎と吉岡敏雄少年の関係は山田洋次監督の映画“男は辛いよ”における車寅次郎と甥(腹違いの妹さくらの息子)の満男との関係に少し形は異なるものの似通っています。

山田洋次監督は“無法松の一生”のファンで、そのため寅さんの苗字を松五郎の職業である車引きに因んで“車”にしたとも言われていますが真偽のほどはわかりません。また松五郎の献身を敏雄少年が迷惑がるところは、寅さんが自分の基準で一生懸命周りのみんなのために尽くそうとするのが頓珍漢な方向に進んでしまいかえって迷惑をかけるところと似通っているような気がします。もしかすると山田洋次監督はここも“無法松の一生”を参考にしていたのかもしれません。

松五郎は48歳で死んでしまいますが、実は“男は辛いよ”でも寅さんは(ハブにかまれて)死んでしまう最後になっているのをご存知でしょうか。“男は辛いよ”という作品は実は昭和4310月から昭和443月までテレビドラマとして放映されその最終回に奄美大島まで(金になるからと毒蛇の)ハブを捕まえに行った寅さんが逆にハブにかまれて絶命するストーリーとなっています。最終回では兄寅次郎の死を信じられないさくらのアパートにひょっこりと寅さんが現れ、やっぱり生きていたんだ!と喜ぶさくらでしたが寅さんは歌を歌いながら去って行くので慌ててさくらは後を追いかけるのです。しかし公園に来たところで寅次郎の姿がふっと消えてしまい、心配して駆けつけてきた夫の博の腕の中で泣き続けるラストシーンにテレビの前で涙した視聴者も多かったといいます。

寅さんを死なせてしまったことでテレビ局には抗議の電話が殺到し、そのため昭和44年から映画“男は辛いよ”の映画版が製作されることになって平成31年の第50作まで続きます。

“その二”にも書いたのですが映画“無法松の一生”は戦争中の昭和18年に公開され大ヒットとなりますが、松五郎が吉岡夫人に思慕の情を伝える部分をはじめ賭博場面や酒を飲む場面など10分余りが検閲でフィルムが切除されたといいます。内務省の検閲室長が「車引きが軍人の未亡人に恋とは言語道断である。こんな非国民映画は絶対通さんぞ!」と激昂したというエピソードがあります。戦後になっても日本に進駐してきたGHQにより、戦勝を祝う提灯行列や敏雄が軍歌を歌う場面などが今度は封建的だとして8分余りがカットされたそうです。

監督の稲垣浩はこの検閲カットの無念を晴らすため昭和33年に再度映画“無法松の一生”の完全版を三船敏郎主演で撮り直しベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞することになります。(もはや“戦後”ですらなくなった)日本において検閲がないということがどんなにか素晴らしい事かと稲垣監督は実感したことでしょう。

ところで“無法松の一生”という名前は、昭和18年公開の映画化の時のもので、昭和13年に岩下俊作が発表した小説の題名は“富島松五郎伝”なのです。最初の映画化の際に脚本担当の伊丹万作が“無法松の一生”と名付け、それが映画の大ヒットによって世に広まったのですが、原作者の岩下俊作はあくまで当初の“富島松五郎伝”にこだわっていたと伝えられています。因みにこの小説は雑誌「改造」の懸賞小説の佳作入選作で直木賞候補作にもなったものの結局直木賞受賞には至りませんでした。

芝居の当たらない町と言われている仙台市にはお芝居専用の劇場というものがありません。寄席すらなかったのですが、先年やっとごく小さな常設の寄席ができました。

私が平成7年に見た舞台“無法松の一生”は宮城県民会館で公演されたのですが、この会館はいわば多目的ホールであって芝居専用の劇場ではないため広さや音響効果そのほかがやはり東京の(芝居専用の)劇場とはかなり違う印象(違和感を覚えたと言い換えてもいいかもしれません。)でした。劇場経営という難しい問題はあるのでしょうが、お芝居好きの身としては残念です。

そして“無法松の一生”のような名作が近年ほとんど上演されることがなくなったのも残念に思っています。文学座の俳優角野卓造さんは「時代が移ってしまいなかなかその当時の人情や風俗・生活様式が現代の人にとって理解されなくなってきているので仕方のない事なんです。」とおっしゃっていましたが、その通りかもしれません。つくづく“昭和も遠くなりにけり”と思わずにはいられない今日この頃です。

せっかくの“私のお芝居礼賛”の記念すべき“ぱあと100”が、残念!残念!というつまらないぼやきに終わってしまいました。これまた残念なことです。