平成168月の歌舞伎座は(先代)中村勘九郎主演の“仇ゆめ”でした。このお芝居は北條秀司原作で歌舞伎には珍しいホロリとさせるコメディで、昭和41年日生劇場で17代目勘三郎(当代勘九郎のお祖父さんです。)主演で初演されました。

粗筋は、京都壬生野に住む(勘九郎扮する)狸が、花街として名高い島原の(中村福助扮する)深雪太夫に恋をします。太夫に会いたい一心の狸は踊りの師匠に化けて近づき一緒に踊りの稽古をするうちに本物の踊りの師匠がやってきて大騒ぎに。

あきらめきれない狸は、千両箱を持っていけば深雪太夫を買えるということを耳にして罠とも知らず千両箱の箱だけを盗みだし太夫のいる揚屋に勇んで行く途中、狸のくせに太夫を買うなぞ不埒な奴と揚屋の亭主たちに袋叩きにされます。それでも痛む体と千両箱を引きずって太夫のもとに辿り着くとその心根にうたれた深雪太夫は狸を客として優しくもてなしますが、殴られた傷が元で狸は太夫の膝の上で息を引き取るところで幕となります。

歌舞伎や落語などにはよく狸や狐が化ける話がでてきます。“狸は七化け、狐は八化け”と言われていますが、その顔つきからかどうか狸の方が少しユーモラスに描かれる場合が多い様な気がします。今回の歌舞伎公演“仇ゆめ”は少しピントのずれた狸の純情一途が描かれ観客の笑いを誘いながらも最後はホロリとさせられる、まさに大人のための童話といった作品に仕上がりました。

先代勘九郎(18代目勘三郎)はその憎めないキャラクターの故かこのようなユーモラスな役はピッタリです。もちろんシリアスな二枚目から悪役・女形まで幅広くこなすことができる名歌舞伎役者でしたが、特にユーモラスな役については他の役者の追随を許さないほど秀逸な演技が目立ちました。“浮かれ心中”や“狐狸狐狸ばなし”“研ぎ辰の討たれ”などのお芝居は最初に(先代)勘九郎(=18代目勘三郎)主演で見てしまうと他の役者が主演した同じ舞台を見てもそれほど可笑しみが伝わってこなくてがっかりしたことが再々ありました。

言葉を換えれば故18代目勘三郎丈主演でこれらのお芝居を間近く見る事の出来た幸せを今となっては噛み締めざるを得ません。

この差はなんなんだろうと考えていますがわかりません。曰く“間”の取り方だとか観客と舞台の一体化だとか抽象的なことは様々言われていますが、どうもピッタリくる説明はないようです。

歌舞伎定番の二枚目役や悪役などはこれまで多くの名優と言われる人たちが演じ素人には甲乙つけがたいものですが、ユーモラスな演技というものは観客にとって笑いというバロメーターにより容易に上手下手が客観的にわかります。同じ所作やセリフであっても演ずる役者によって可笑しみが強く伝わる場合と(どんな名優が演じようとも)そうでない場合とが歴然とちがうのです。

努力によって得られるものではなさそうです。いまはやりの人工知能AIでも解析不能ではないでしょうか。やはり天が与えた才能ということですかね。

18代目勘三郎丈と故藤山寛美さんにはこの天賦の才能が間違いなく備わっていました。寛美さんの娘である藤山直美さんにも備わっています(断定です!)が、ほかの役者さんでこの才能を持っている人はいないように思います。

ただ笑わせるだけの或いは泣いて笑ってというありふれた喜劇を上手に演じるコメディアンは沢山いますが、藤山直美さんのような“鬼気迫る喜劇”を演じる能力や18代目勘三郎丈のように笑いを感動にまで昇華させる稀有な演技力というものは、何十年に一人の天才にしか備わらないものの様です。つくづく18代目の早世が残念です。