( “越前一乗谷” その三 )

“ぱあと108”を読んだ方から次のようなメールを頂戴しました。(ご本人の了解を頂戴した上で掲載します。)

ぱあと108″楽しく拝見しました。朝倉家滅亡後秀吉が亡主義景の側室を自身のそれに取り立てていたとは寡聞にして初めて知りました。羽柴秀吉はのちに北ノ庄落城後茶々を側室にしたごとく、中国攻めの最中毛利方だった岡山城主宇喜多直家を織田方に寝返らせたのちその死後妻の於ふくを側室に加えた(その連れ子に自身の一字を与え秀家として身内同様藩屏の一人に取り立てた)のも、単に漁色家以前に城同様城主の女そのものも召し上げることで己の征服欲に磨きをかけていたのかも知れません。

攻め滅ぼした武将の愛妾を自分の側室にするということは昔からよくある“話”で古くは平治の乱に敗れた源義朝(みなもとのよしとも)の愛妾常盤御前(ときわごぜん→源義経の母親です。)が敵方の平清盛の側室にさせられ、また織田信長の父親信秀も落城に追い込んだ武将の側室をその都度我がものにしていたと言われています。

常盤御前にとって自分の夫を死に追いやった張本人の平清盛の側室になるなど屈辱の極みだったかもしれませんが、自身の三人の子供今若丸・乙若丸・牛若丸(これがのちの義経です。)の命を助けてもらう代わりに身を任せることを承知したことになっています。ただこれも物語上の常盤御前の話であって史実として裏付けられたものではありません。

歌舞伎の“越前一乗谷”のストーリーに於いては“ぱあと109”に書いた通り羽柴藤吉郎は小少将を側室にしたという事実はないので、この方もお芝居すべてが史実と勘違いされたようです。次の日すぐ“ぱあと109”を読んで頂いたようで、すぐさま又次のようなメールが届きました。少し長くなりますが、ご本人の了解を得て次に掲げます。

秀吉が朝倉家滅亡後亡主の側室小少将を自身のそれに召し上げたのは史実に反する由、こうなると宇喜多直家の後妻を亭主の死後秀吉が自身の側室に加えた(ネタ元/司馬遼太郎著「豊臣家の人々」〜宇喜多秀家)のも果たして史実かどうか怪しくなります。

どだい歴史小説や史劇など所詮はフィクションに過ぎぬことは理解しなければなりませんが、例えば流行作家の域からはみ出てエッセイや講演などで己の史観までも確立している司馬遼太郎レベルのクリエイターは、自身が表現した筋書きから本人からすれば何気ない台詞の端々に至るまで、読者や観客など歴史に疎い受け手はそれが史実と受け取ってしまいかねない危険性を絶えず念頭に置く必要があるのではと考えます。

特に歴史を大河とすれば、例えば土方歳三のラストサムライとしてのダンディズムや死に場所を求め彷徨うニヒリズムをいくら創作しようが所詮支流の域から出ることはありませんが、司馬が明治37年の日露戦争の際に”初めて遭遇した近代”と表現したトーチカなる要塞にやみくもに突撃を命じ徒らに死傷者を増やしたとされる乃木大将を愚将と決め付けたり、昭和14年のノモンハン事件においてソ連軍死傷者が自軍のそれを上回っていた事実をあえて伏せ作戦参謀辻政信の「戦争は意志の強い方が勝つ」の一言で関東軍の前近代性のみを強調し、ひいては負けると分かっている戦争になぜに突入してしまったのかなどと後出しジャンケン史観を唱えるのは、本流そのものの方向にも影響を及ぼしかねない現実を認識する必要があります。

後世に創作された一言で男を上げる( 「板垣死すとも自由は死せず」 → 板垣支持者のジャーナリスト小室信介の言葉で板垣退助は死の間際にこのような言葉を発していません。 「日本の夜明けぜよ!」 → 落語家の林家木久扇がアラカンこと時代劇の名優嵐寛寿郎の映画“鞍馬天狗”での台詞「杉作、日本の夜明けは近い!」をモノマネした際に何かの拍子で坂本龍馬に結びつけられた。 )のならまだしも、本人が言うはずもない言葉で人格そのものも否定される( 例えばフランス革命ひとつとっても、マリー・アントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」 → ジャンジャック・ルソーの自伝に登場する貴婦人が革命の50年も前に言った言葉でマリー・アントワネットはそんな事を言っていない。ナポレオンの「余の辞書に不可能はない」 → エジプト遠征の際部下に言った言葉とされるが直訳すると「不可能という単語はフランス語的ではない」というのを日本の識者が誤って訳した。 )となると本人の名誉にも関わる一大事だけに、表現にあたってはより慎重に対処すべきと考えます。

私なぞよりはるかに歴史に詳しい方の文章なので、一言一言の重みが違います。

あやかりたいものですがまあ私には無理ですね、到底。