( “南の島に雪が降る” その二 )

さて舞台“南の島に雪が降る”の粗筋です。昭和18年秋ニューギニア西北端のマノクワリに送られた加東さん達は内地からの補給が途絶えがちになることで負け戦を実感しはじめます。痩せこけた体にボロボロの衣服そして伸び放題の髪や髭、まさに敗残兵という表現がぴったりの兵隊たちはしかし生きるために生きているものはそれがネズミであろうとカエルであろうとなんでも口にしました。とったもん勝ちですから当然兵隊同士で深刻な諍いが起こります。私が昭和57年ごろ宮城県民会館で初めて観たこのお芝居の冒頭シーンは、捕まえた一匹のトカゲを巡って醜く争う二人の兵隊の場面からでした。(因みに平成278月に三越劇場で見た時の冒頭シーンは、過酷なニューギニアを生き延び97歳になった叶二等兵の回想シーンから始まります。)

故国に帰れる当てもなく戦死、病死、餓死という目の前にある死の恐怖と隣り合わせの絶望感に人間性を失って動物以下に成り下がる兵隊たちを見て、加東さんは得意の芝居で自分たちの生きる希望を何とか取り戻そうとします。現状に危機感を充分感じていた軍司令部も、この進言を許可しマノクワリ演芸分隊を立ち上げます。一般社会の縮図ともいえる軍隊はあらゆる職業の出身者が揃っており演芸分隊を立ち上げるや、たちまち長唄三味線師匠の叶二等兵(小説では叶谷二等兵)をはじめとして元フラメンコダンサーの前川二等兵、元コロンビアの専属歌手、節劇の俳優、演劇評論家、脚本家、カツラ職人、友禅のデザイナー、紳士服の仕立屋など芝居に欠かせない人たちが続々と集まります。ほとんど何もないところから衣装や大道具・小道具を製作し、かつらと着物を身に着けて化粧を施しみごと女形に変身した前川二等兵を見て皆故郷に残した妻を思い出します。

演芸分隊の第一回公演は大成功となり、その後軍司令部から「劇場を建設せよ。」との命令に演芸分隊員全員が狂喜します。苦労の末昭和202月完成した劇場はマノクワリ歌舞伎座と名付けられ、杮(こけら)落とし公演「父帰る」も250人余りの観衆を前にさらなる大成功をおさめます。マノクワリ近辺の7千人余りの生き残った兵士たちに順番に芝居を見せる加東さんはじめ演芸分隊員たちの奮闘が続きます。

そこに東部ニューギニアで全滅したとされる部隊の一人の兵士が杖を突きながらよろよろと演芸分隊にやってきます。聞けば4日かかってここまで来たのだとか。奥地にその部隊の生き残りが10人ほどいて(全滅したことになっているため)観劇日程から外されているが何とか芝居を見せてもらえないだろうかとの願いを加東さんは快諾します。するとその兵士はさらに続けて、衰弱して死にかけている雪国東北地方出身の仲間のために“雪”を見せてもらえないかと懇願するのです。

暑いニューギニアに降るはずのない雪を舞台に降らすために加東さん達は様々な工夫を施します。降る雪は紙を切って作り、地面につもった雪はもはや使い道がなくなり倉庫に虚しく眠っていた落下傘を舞台に敷いてそれらしく見せます。屋根の上や木に張り付いた雪は病院から提供された脱脂綿を使用しました。幕が開き雪の場面になるや「雪だー!」という兵隊たちの異口同音の叫び、どよめき、そして長い興奮。目の前の舞台に、忘れかけていた遠い故郷の冬の光景が鮮やかに広がったのです。演者も、軍のお偉いさんも、そして余命いくばくもないような兵士までもがみんな泣いていました。

エピローグ、時は現在に戻り再び97歳の叶二等兵の回想に変わります。マノクワリ歌舞伎座、杮落とし公演、そして加東さんの口上、マノクワリの雪・・・・。

“生きて帰れぬニューギニア”と言われた地から幸運にも生きて日本に帰ることのできた兵隊たちの喜びと、死んでいった戦友たちへの鎮魂の思いがズシリと伝わってくるようで密かに涙が流れました。27歳と97歳の叶二等兵役を演じ分けた前進座の中嶋宏太郎さん上手でした。

お芝居を見ていてたった一つだけ違和感を覚えたことがあります。出演した前進座の俳優さんたちの多くが健康的で割と肉付きが良かったのです。特に軍司令部の林参謀役を務めたベテラン俳優藤川矢之輔さんは丸々と太って太鼓腹の持ち主でした。内地からの補給が途絶えて食うや食わずのニューギニアマノクワリにいた兵隊さんたちは当時みんな痩せこけていたはずです。芝居開幕前に必死にダイエットしてもう少し細身になってから芝居に臨んだ方がよろしかったんじゃあないでしょうかねー。