( 絵本太功記 尼崎閑居の場 )

明智光秀を主人公にした歌舞伎にもう一つ“絵本太功記(えほんたいこうき)”というのがあります。こちらは近松柳など三人の戯作者の合作で、武智光秀が小田春永の不興を買う初日から本能寺の変、そして光秀の最期までの13日間を全13段の物語構成にして描いています。今日では全13段を通しで演じられることはほとんどなく十段目に当たる尼崎閑居の場などの人気の段のみ繰り返し演じられています。この絵本太功記は鶴屋南北作の“時今也桔梗旗揚”に比べて光秀の悪役ぶりが一段と強調され、実の母親を(誤って)竹槍で突き殺し息子十次郎も討ち死にさせてしまいながらも反逆者の凄みと何事にも動じない大きさを見せる構成になっています。

平成1512月に歌舞伎座で見た絵本太功記十段目尼崎閑居の場の粗筋は、小田春永の自身に対する理不尽な仕打ちに先代市川團十郎扮する光秀もさすがに耐えかねて春永を本能寺に討ち取ります。しかし実の息子光秀があろうことか主人の春永に謀反を起こしたことを怒り悲しんだ母親皐月は尼崎の庵室に引きこもってしまいます。そこへ中村橋之助(当時)扮する旅の僧実は真柴久吉が一夜の宿を乞いにやってきます。そして竹藪の中から光秀が現れ、人の気配を感じてこれぞ仇敵真柴久吉と考えて竹槍で突き刺しますが、これがなんと母親の皐月!驚く光秀に手負いとなった皐月が「由緒正しい武智の家名が主君を討った光秀のために汚された。」と嘆き悲しみます。光秀の妻中村芝翫(当時)扮する操も「(義母皐月のために)善心に立ち返って欲しい。」と懇願しますが、光秀は春永の悪逆非道ぶりを言い立てて聞く耳もちません。そこへ真柴久吉軍と戦って瀕死の重傷を負った中村勘九郎(当時)扮する光秀の息子十次郎が戻ってきて武智軍は当初優勢だったもののその後総崩れとなってしまったので一刻も早く本国へ逃げ帰るよう告げて息絶えます。するとそこへ家来を引き連れた真柴久吉が現れ、切りかかろうとする光秀を制して「日を改めて山崎で雌雄を決しよう。」と申し出て光秀もこれを了承して幕となります。

実際にはこんなことは起こりうるはずもありませんが、いかにも日本人好みの度量の大きさを見せつける絵になるラストシーンでありました。

芝居では身内をみんな不幸にしながらも悪逆非道の謀反人光秀は悔い改めることなく悪あがきを続け遂には自分の城に逃げ帰る途中小栗栖(おぐるす)の里で土民の竹槍に突かれて落命します。観客は因果応報ととらえ光秀には哀れみを持たなかったに違いありません。それほど光秀の悪役ぶりを際立たせたお芝居構成となっており、そしてそれが初演から200年以上もたった今日までも続いています。

小栗栖の里で竹槍に突かれた光秀は薄れゆく意識の中何を思ったのかは知る由もありませんが、62日の本能寺の変からたった11日しかたっていないのです。「アア時間を11日だけ巻き戻して、その時の謀反の気持ちを封印し自身の軍勢を本能寺に向かわせることなく主君信長の命令通り中国の毛利攻めに出発しておけばよかった。」と、後悔しながら亡くなったのではないかと思います。さらにもう少し意識が長く続けば、「きっと後世の人達は自分を悪く言い続けるだろうな、悔しい!悲しい!無念だ!」と思いながら死んでいったかもしれません。

何故、光秀が主君信長を討ったのか、古来その理由は(お芝居上の通説である)信長のあまりに酷い仕打ちに堪えかねたからだとか徳川家康や羽柴秀吉の陰謀説、朝廷の黒幕説などなど様々語られていますが決定的なものはないようです。先日光秀を題材にしたテレビ番組を見ていたら興味深い説が登場しました。

本能寺の変当時、信長によって京都を追放されていた足利15代将軍義昭は毛利氏の保護のもと広島の地でいまだに将軍として復活の機会を狙って諸国の大名に「信長を討て」の御内書を大量に送っていたのです。四国の覇者長曾我部元親の元にもその書状が届き光秀と親しかった元親がそれを光秀に見せ、もともと足利将軍の家来でもあった光秀は旧主の思いに呼応し独断で信長を討って足利幕府再興を夢見たのではないかという説が近年浮上してきたとのことです。もちろん真偽のほどはわかりませんが、それを裏付ける古文書も発見されているのだそうです。

革新を好む信長に対して旧来の伝統を重んじてきた光秀が、次第に嫌気を感じ始めた頃に旧主筋足利義昭の(自分宛ではないものの)御内書に心を動かされた可能性もあながち否定できないかもしれないと思っています。これだから歴史は面白いのです。そのうちあっと驚く新説が出て瞬く間に通説になることだってあるかもしれません。そうなると歌舞伎をはじめとしたお芝居や映画はこぞって全く違う明智光秀を描くことになるんでしょうね。