( 勧進帳 その一 )

能楽の“安宅”を元に作られた歌舞伎の演目に“勧進帳”という名作があります。勧進帳とは今となっては聞きなれない言葉かもしれませんが、神社仏閣が建物や仏像などの建立・修理のために全国から寄進を募る際の公認の趣意書のことで、これがあると大っぴらに寄付を集めることができたのだそうです。

“勧進帳”の粗筋は、平家が壇ノ浦に滅んだあと鎌倉の兄源頼朝と不和となり追われる身となってしまった源義経主従が京都を離れ奥州(岩手県)平泉の藤原秀衡を頼って陸路逃れようとします。これを察知した頼朝があちこちに関所を作って義経を捕らえようとし、義経主従が山伏姿に身をやつしているとの情報から特に山伏を厳しく詮議するようにと厳命します。加賀の国(石川県)安宅に設けられた関所を義経主従が、奈良東大寺大仏の再建のため全国を勧進(寄付を集める)して回ると偽って通ろうとします。これに対し関守の富樫左衛門は本物の山伏かどうか厳しく問答を仕掛けさらに東大寺勧進の僧なれば必ず所持している勧進帳を読めと命じるのです。もとよりそのような勧進帳があろうはずもないのに弁慶は何も書かれていない白紙の巻物を勧進帳に仕立てて勧進の趣意を淀みなく読み上げます。さしもの富樫も疑いを晴らして関を通ることを許した時、富樫の家来が(実は義経が変装している)強力(ごうりき→荷物持ち)の姿が怪しいと富樫に進言します。同行の義経家来たちが、“すわ見破られたか!”と富樫達に切りかかろうとするのを必死に押しとどめる弁慶は、「お前のせいであらぬ疑いをかけられた。」と手にした金剛杖で強力(実は義経)を散々に打ち据えます。この時富樫はこの強力こそ詮議の対象の義経であることを悟るのですが主君の為決死の覚悟で振舞う弁慶の忠義心に感銘を受けあえて見逃し関所を通ることを許します。安宅関を通過した後弁慶は如何に義経の命を助けるためとはいえ主人を打擲(ちょうちゃく)したことを深く詫びるのですが、義経は弁慶の手を取ってその働きに感謝するのでした。

このお芝居は元禄15年(1702年)の初演以来300年余りの長きにわたって練りに練り上げられ、勧進帳を読み上げる弁慶の朗々としたいわば雄弁術、義経一行の嘘が見破られそうになるという緊迫感、弁慶の忠義心に打たれて関所の通過を許す富樫の情け、そして最後に弁慶が花道から有名な飛び六法で下がっていく豪快さなど見どころが多く歌舞伎作品の中でも最も人気の高い(要するに上演回数が多い)お芝居になっています。明治の元勲の一人である井上馨の私邸で明治204月に明治天皇・皇后両陛下をお迎えしての天覧歌舞伎の際の演目にこの勧進帳が選ばれたことでもその人気の高さが知れます。

因みに(この頃はあまり使われませんが。)あたかも原稿を読んでいるふりをして実は即興で物を言うさまを“勧進帳”と言います。平成208月漫画家赤塚不二夫の葬儀の際タモリが8分にわたる弔辞を読んだ時、手にしていた奉書が白紙であったことから“平成の勧進帳”と呼ばれたことがありました。今風の言葉で言えばさながら”アドリブ”といったところでしょうが、その現代の勧進帳を演じきったタモリこと森田一義は、盟友赤塚不二夫の葬儀の際の弔辞が、「これまで数多くの(弔辞の)依頼を断り続けてきた。それ以前そしておそらくそれ以後もない、自身による生涯唯一のものになる。」と語っていたそうです。

歌舞伎座で必ずと言っていいほど年に数回は上演されるこの勧進帳を私はこれまで20回近く様々な役者の演じる弁慶や富樫で見てきましたが、最も印象に残るのが平成204月の歌舞伎座公演のそれでした。この時弁慶を当代片岡仁左衛門丈、富樫を18代目中村勘三郎丈そして義経を当代坂東玉三郎丈が演じました。もう目も眩むような豪華キャストです。特に第56代清和天皇の血筋を引く源家の御曹司としての気品と、実の兄頼朝に追われる身の落人としての悲しみを表現しなければならない義経に玉三郎丈とはまさにピッタリの配役!でした。

歌舞伎には平家物語を題材にした作品が多いのですがそれらの多くが義経を中心人物に据えるのではなくお芝居の進行の上で重要ではあるものの脇役の存在として描かれる場合が多いように思われます。この勧進帳も弁慶と富樫のやり取りが中心で義経の影は薄いのですが、この時ばかりは(義経を初役で勤めた)玉三郎丈の演技が光りこれまでの勧進帳とは一味違うというより二味も三味も感動が増えたような気がしました。