平成29年8月の歌舞伎座第一部は長谷川伸の名作“刺青奇偶(いれずみちょうはん)”でした。“奇偶”と書いて“ちょうはん”と読ませるのは、サイコロばくちで使う二つのサイコロの目の数の合計が(例えば4と2のように)偶数なら丁(ちょう)、(例えば5と2のように)奇数なら半という具合に呼ぶことからのいわばこじつけです。

 物語は、三度の飯よりばくち好きの半太郎が世をはかなんで身投げした酌婦お仲を救い、所帯を持ち沖仲仕の仕事をしながら細々と生計を立てていたがお仲が不治の病にかかる。瀕死の床にあってお仲は半太郎の二の腕にサイコロの刺青をして「今後二度とばくちをしてくれるな」と意見をする。しかし半太郎は自分のばくちゆえに苦労を掛けた末に余命いくばくもない恋女房のお仲のために人生最後の大ばくちを情け深い大親分鮫の政五郎との間で打ちます。そのサイコロばくちに勝って(政五郎の温情があったのかどうか)大金を手にした半太郎は一刻も早くお仲のもとへ駆けつけようとするところで幕となります。

原作者の長谷川伸はその後の顛末を書いていません。潤沢な治療費のおかげでお仲は健康を取り戻したかもしれないし治療の甲斐なく亡くなったかもしれない。あるいは大金を目にして喜んだ末再度「ばくちは今度こそやめて」と意見したうえで絶命したかもしれません。観客の想像力に任せようとしたのです。

長谷川伸は言います。「自分の戯曲には行間が空けてある。そこを見つけて芝居を生み出すのが演出者と役者の腕だ。」と。長谷川伸は続けたかったに違いありません。「そして観客も自由に大きく想像力を膨らませてもらいたい。」と。

昭和28年12月の筋書本に長谷川伸が寄稿した“「刺青奇偶」の夢”という随筆の一部をご紹介します。

 「忘れているのにふと夢に見る、書いた戯曲(しばい)のあの女」という二十六字の唄が私にある。私にも自分の書いた戯曲の中の「あの男」を夢に見ることはないが「あの女」を時に、それこそ思いもかけず夢に見ることがある。それはいつも黙って立ち姿を見せる、ただそれだけの夢に見るのである。というのが、私の過去のそこかしこで、と言っても今のように“先生”なぞと呼ばれるには遠い世渡りの昔、そうした女を友達に多く持っていたことがありしかも歳月多くを経て心のどこかに忘れかねるものがあるからなのだろう。そうした女と言ったのは幾人もいたが「書いた戯曲のあの女」で「ふと夢に見る」は二人だけ、“沓掛時次郎”のお絹と“刺青奇偶”のお仲だけである。

長谷川伸は明治20年三歳の時に両親が離婚し、以後辛酸をなめながら小説家として世に出ます。その不遇時代にお仲のような女性が実際に居たのかもしれません。

私はこの“刺青奇偶”を平成11年と20年に歌舞伎座で18代目中村勘三郎の半太郎と当代坂東玉三郎のお仲そして当代片岡仁左衛門の政五郎で見ていて今回が三度目です。

最前列中央に座る私の目の前で市川中車(先代市川猿之助長男の香川照之です。)扮する半太郎が、市川染五郎扮する政五郎の前であける壺の二つのサイコロを私は凝視していました。半太郎は半(奇数です。)に賭け、政五郎は丁(偶数です。)に賭けますが、物語上はその目は半と出て半太郎の勝ちとなるのですが、私の目の前の中車が振ったサイコロの目は「1と1」(これをピンゾロといいます。)の丁だったのです。サイコロの目が奇数になるか偶数になるのかは確率が50%のはずですからお芝居の日によって実際は丁になったり半になったりしますが私が観劇したこの日の目は間違いなくピンゾロの丁でした。中車の一番近くに座ってサイコロの目を凝視していた私だけが多分この真実を知っています。(あははオーゲサ!)

サイコロの目は1が一番わかりやすいのでもしかすると中車はサイコロを凝視していた私に気がついたのかもしれません、実は丁だったサイコロをすぐ「半だ!」と叫んで掴んだのです。(OH、ショーコ隠滅!

1から6まであるサイコロの目は表と裏を足すと必ず7になるように作ってあります。1(穴が真ん中に大きく一つで赤く塗られることが多い。)の裏は6ですし2の裏は5,そして3の裏は必ず4なのです。因みにサイコロは二つ使う場合が多いようですが一つの場合(チョボイチといいます。)もあります。また“ぼんくら”という間抜けな人をののしる言葉も実は「盆暗」と書くばくちの用語から来ていて、賭場を意味する盆中のサイコロを見通す能力が暗く負けてばかりの人を「盆が暗い」と揶揄したことが語源となっています。

オッとあんまり詳しいと疑われそうですが、実践で覚えたわけではありません。みんな歌舞伎と落語からの受け売りです、念のため。