平成29年11月の国立劇場は、(私が勝手に選んだ)長谷川伸5大名作の一つ「沓掛時次郎(くつかけ ときじろう)」でした。昭和3年に発表されたこの作品は、映画や商業演劇ではよく演じられましたが歌舞伎では41年ぶりのホントに久々の上演ということでした。 

一宿一飯の義理で六ツ田の三蔵(むつだのさんぞう)を殺(あや)めたばくち打ちの時次郎は、その贖罪(しょくざい)の意識からかやくざをやめて三蔵の身重の女房お絹と一子太郎吉の世話をすることになりますが、なかなかいい仕事にありつけず、貧乏に堪えかねて日当1両でやくざ同士の喧嘩の助っ人を引き受けます。無事に助っ人を勤めあげて1両を手にして安宿に世話になっているお絹の元に戻るのですが、既にその時お腹の子共々お絹は帰らぬ人になっていました。泣く泣く野辺の送りを済ませて、三蔵の忘れ形見太郎吉と共に旅に出るところで幕となります。いいお芝居でしたが、時次郎を演じる歌舞伎俳優の中村梅玉丈は昭和21年生まれの御年71歳です。カッコイイ時次郎を演じるにはちょっとトウが立ちすぎていましたかね、惜しいことに。(オーキナお世話!か。)

“私のお芝居礼賛ぱあと41”にも書いたのですが、作者の長谷川伸の作った歌に「忘れているのにふと夢に見る 書いた戯曲(しばい)の あの女」の、“あの女”とは「刺青奇偶」のお仲と、この「沓掛時次郎」のお絹だと随筆に書いています。長谷川伸にとってそれほど思い入れの強い作品だったということだったのでしょう。

ところで沓掛時次郎の“沓掛”は実は苗字ではありません。江戸時代は武士以外の一般の人達には苗字は許されていませんでした。まして世間の鼻つまみ者のばくち打ちに苗字などあろうはずがありません。“沓掛”とは今の長野県東部の軽井沢辺りの地名なのです。名前だけだと区別がつけにくく何かと不便なので名前の前に苗字のかわりに形容詞のようなものをつけて分かりやすくしたのです。これにはその人の生まれ故郷や一族、商売の屋号など様々ありますが、時次郎は生まれ故郷の沓掛を名前の前に付けているのです。つまり“沓掛出身の時次郎”という意味ですから、正しくは“沓掛時次郎”と呼ぶべきなのかもしれません。

年齢が60歳程度以上の人には「てなもんや三度笠」というテレビのコメディ番組をご記憶のことと思います。昭和37年5月から昭和43年3月に終了するまで日曜日午後6時からの30分番組で全309回放映され、番組最後に主演の藤田まことがスポンサーの前田製菓のクラッカーを持って「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」という決め台詞で毎回番組が終わっていました。配役は藤田まこと扮する“あんかけの時次郎”で、相棒の“珍念”が白木みのる、“駒下駄の茂兵衛”が香山武彦(美空ひばりの弟です。)そのほか榎本健一!や南利明、山東昭子、柳家金語楼、三波伸介、里見浩太朗、水前寺清子なども出演していて(その多くが故人となってしまいましたが)今思うとかなりの豪華メンバーだった番組でした。随分後から気が付いたのですがこの“あんかけの時次郎”は沓掛時次郎のパロディだし“、駒下駄の茂兵衛”も長谷川伸の5大名作の一つ“一本刀土俵入”の駒形の茂兵衛のパロディだったのです。当時は“あんかけ”も“駒下駄”も苗字だと思っていましたが当然にそうではありません。

歴史上の人物に“平清盛”という人がいますが、ほぼ全員がこれを「たいら きよもり」と読んで「たいら きよもり」とは発音しません。「たいら の きよもり」という場合の“平”は実は苗字ではないからなのです。この場合の“平”は“平一族の”という意味で使われる為に間に“の”が入るのです。また誰もが知る銭形平次の場合も、銭形は苗字ではなく“銭の形をしたものを投げる”平次という意味になります。そして歌舞伎の仮名手本忠臣蔵十段目で赤穂浪士を援助する天河屋義平の場合も“天河屋”は商売の屋号であって苗字ではありません。西洋でも事情はおんなじで、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチも“ヴィンチ村出身のレオナルド”という意味合いになるんだそうです。

江戸時代が終わり明治の御代になってすべての国民に苗字が許されると、名前の前に付くこのようないわば“味のある形容詞”が急速に姿を消したのはちょっと残念な気がします。