( “父の詫び状” その二 )

昭和4年東京に生まれた向田邦子は保険会社に勤務する父親の転勤にともない栃木、鹿児島、香川、東京そして戦後は宮城県仙台市にも住んでいたことがあります。実践女子大学を卒業して雑誌社に勤務、昭和35年フリーライターとして独立、テレビの普及とも相俟って多くの脚本を手掛ける売れっ子脚本家・作家となりました。

「だいこんの花」 「時間ですよ」 「寺内貫太郎一家」 「冬の運動会」 

「阿修羅のごとく」 「あ、うん」 「せい子・宙太郎」 「蛇蝎のごとく」

などなど、ある程度の年配者なら、昭和40年代から50年代にかけて、必ず見たことのあるテレビドラマです。因みに私はみんな見ました。昭和55年には短編の連作集で第83回直木賞を受賞するも、翌年台湾の旅客機墜落事故に巻き込まれて51歳で亡くなります。

向田邦子の作品は昭和のごくありふれた家庭の中の喜びや悲しみに人情の機微を織り交ぜて構成されており、そこにはスピードもスリルもスペクタクルもありませんが、それゆえに観る者や読む者に郷愁を感じさせ共感も得やすいのだと思います。舞台装置も昭和の普通の家を再現すればそれで十分なので映画やテレビドラマよりも舞台化にうってつけだと思われるのですが、なぜか平成7年以降向田作品はあまり舞台化されることがないようです。テレビドラマでも昭和時代までは加藤治子や小林薫、すまけい、田畑智子などが向田作品によく出演していましたがこれも平成になるとほとんど姿を消しました。向田邦子の遺族と何かトラブルにでもなったのでしょうか、向田邦子ファンとしては残念でなりません。

“父の詫び状”は昭和53年に単行本化された向田邦子のエッセイ集を舞台化したもので、邦子の実体験に基づいているものと言われています。

“その一”にも書いたのですが主人公中牟田時雄は自身の目から見ると堅気ではない淫蕩な母親の血を受け継いでいることに幼いころから恐怖と嫌悪を感じ、異常なまでに自分も家族も律しようとします。そして何かと母親とめに辛く当たるのですが、私はある時から時雄はとめの苦悩と悲しみを受け入れたのではないかと考えています。(多くのサラリーマンがそうであるように)自分自身が会社勤めでみじめな思いや理不尽な扱いを受けるたびに、ああ自分の母親も子供たちには見せないだけで、昔このような辛い経験をしたのかもしれないと少しずつ気が付いていったのではないかと思います。そしてある時からとめを全面的に受け入れ過去を忘れようと決心したはずなのですが、ただずっと家族の中では絶対的存在として生きてきた時雄にとってそれを態度に表すことや、まして口に出して陳謝と感謝の言葉をとめに掛けるなぞ到底できなかったのです。

とめの死去に伴って時雄は生前表すことのできなかったとめへの感謝を、立派な葬儀そしてとめの故郷への納骨という形で表したのではないかと思うのです。舞台のシーンにはありませんが、お骨箱と共に汽車に乗ってとめの故郷に向かった際の時雄の心境は母親が生きているうちにこうすればよかった、ああしてやればよかったとの悔恨の気持ちが湧いていたのではないかと思います。汽車の中でお骨箱を膝の上に抱き密かに涙する丸眼鏡の時雄の様子が目に浮かぶようです。

そして舞台最後のシーンに時雄から娘史子への短い手紙を読むナレーションが流れますが、それは母親とめにも向けたものだったのに違いありません。ナレーションの言葉にはありませんでしたが、時雄からとめへ「母さんごめんな、辛く当たり続けてごめんな、親孝行してやれなくてごめんな、これまで育ててくれてありがとう、ありがとう、ありがとう。」の思いが十分に観客席まで伝わってきたからです。