( “父の詫び状” その五 )

“その四”に掲載した昭和61年のTVドラマと平成7年の舞台に出演した俳優さんたちは、主演の杉浦直樹が平成1379歳で没したのをはじめとしてその多くがすでに物故者となられています。TVドラマ放映から34年、舞台からでも25年あまりの歳月が流れており、さらにそれぞれの役者さんはその当時もうベテラン俳優でしたからから当たり前ですが、改めて見直してみると名優を次々に失った現実に悲しくなります。

 

舞台(平成7年)     中牟田とめ役の藤間紫が平成2185歳で没

            溝口老人役の下元勉が平成1283歳で没

             隣人根本役の名古屋章が平成1572歳で没

       TVドラマ(昭和61年)  田向千代役の沢村貞子が平成887歳で没

             橋本老人役の殿山泰司が平成元73歳で没

 

そしてエッセイ集“父の詫び状”を物した向田邦子はTVドラマもサンシャイン劇場での舞台も見ることなしに昭和568月取材旅行先の台湾で搭乗していた飛行機が墜落して不慮の死を遂げています。邦子の父親は昭和4464歳で亡くなっていますが、母親せいは平成20年まで生きて百歳の長寿を全うしたことがわずかな慰めになりましょうか。長女邦子の残りの寿命を分けてもらったのかもしれません。

向田邦子は飛行機嫌いで有名だったそうです。特に昭和時代にはこういう人が結構いて落語家の古今亭志ん生さんも「あんな重いものが空を飛ぶわけがない。」と言って乗らなかったそうです。弟子から「師匠、でもホラちゃんと飛行機が飛んでいますよね。」と言われると「あれはお前、目の錯覚なんだよ。」と切り返したと、息子の古今亭志ん朝さんが落語の枕に使っていたことがあります。

昭和時代は飛行機の墜落事故が今よりもずっと多かったような気がします。そのたびに大勢の犠牲者が出て、その中には芸能人(歌手坂本九や漫談家大辻伺郎ほか)など有名な人も含まれていたので尚更飛行機は危ないものという先入観が当時多くの人にあったのは事実です。(その当時、年配者にとっては“つい先だっての出来事”だった)あの戦争で、飛行機乗りが沢山戦死したということも多くの人の心のどこかに残っていて“飛行機は危ない!”と無意識のうちに思っていたことも飛行機嫌いが多かった理由の一つかもしれません。

邦子はエッセイ集“父の詫び状”第18作目に「兎と亀」というタイトルで作家澤地久枝と一緒に南米ペルーに取材旅行に行った際に飛行機に乗らねばならないことになったときの逡巡や恐怖を割とコミカルに書いています。二人が搭乗する日の直前のクリスマス・イブにペルーの旅客機がアンデス山脈に墜落し90人余りの乗客は全員絶望とのニュースが流れたので、恐怖は尚更つのったことでしょう。それでも意を決して乗ることになり“大分古くなったYS-11”が無事目的地の空港に着いた時の様子をエッセイの中で次のように書いています。

 

「飛行機は無事イキトスの空港に着陸した。飛行場の整備が悪いのか

それともパイロットの腕がよろしくないのか、

ガタンガタンと非人道的なショックがあったが、ともかく、地面に着いた。」

 

昭和40年代から50年代にかけて飛行機に乗り慣れない人が感じた緊張と恐怖と安堵感が、簡潔な表現ながらよく伝わってくるような文章です。そして運命の昭和56822日、台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故により帰らぬ人になります。その最後の状況がどのようだったかはもちろんわかりませんが、墜落する飛行機の座席で向田邦子はきっと「ペルーの時も無事イキトス空港に着いたじゃないか。今度も大丈夫、今度も大丈夫。」と必死の形相で祈るように自分に言い聞かせていたのではないかと思います。エッセイ「兎と亀」を書いてからわずか数年後のことでした。

亡くなった当時51歳だった作家向田邦子はその後少なくとも30年以上は名作を世に出し続けたものと思われますが、それを目にすることができないのは残念の極みです。

合掌