( “盲目物語” その五 )

文豪谷崎潤一郎が昭和六年に発表した小説“盲目物語”は、

「わたくし生国は近江の国長浜在でござりまして、誕生は天文21年の年でござりますから当年は幾つになりまするやら。左様、左様、65歳いえ6歳、に相成りましょうか。左様でございます。両眼を失いましたのはよっつの時と申すことでございます。」

という座頭弥市の独白で始まります。

この小説の冒頭を読んで“ああ可哀そうなあの弥市は66歳まで生き続けることができたんだな!”と、小説のことながらなんとはなしにホッとして嬉しい気持ちでした。お市の方も秀吉もそして淀の方(お茶々)もとうに亡くなり、生き永らえた弥市が昔のことを一人称で回顧する形式で小説が構成されているのです。

ところで“弥市”という名前は小谷城に奉公するようになってお市の方から賜った名前だということが小説に書いてあります。それまでは単に“坊主”と呼ばれていたのが

「“ただ坊主ではいけぬ。”とおっしゃって、奥方から“弥市”という名を頂いておったのでござります。」

と、弥市自身が語っています。その頃身分卑しい者には名前すらあやふやなものが多く、見た目を適当にあだ名のように呼びならわしていたことも少なくなかったようです。

小説“盲目物語”は、柴田勝家の北ノ庄城落城の場面に多くのページを割いています。落城が時間の問題となった時、弥市に

「こうなっては無残や奥方のお命もないに決まった、この上は三途の川のお供をして末永くおそばにおいていただくとしよう、どうか来世は目明きに生まれてお美しいお姿を拝めるようになりたいものだ。」

と盲人ならではの心情を語らせています。

 

そして羽柴秀吉の軍勢に十重二十重に囲まれ落城を目前にして勝家は城内で最後の宴を催し(歌舞伎の舞台にもその場面があります。)ます。小説“盲目物語”では、次のように弥市に語らせています。

「皆々この世の舞い納め唄い納めに達者な芸をご披露に及ばれ遊興の限りを尽くされますのでご酒宴の席は夜が更けるほどに賑やかに相成り、いつ果てるともわかりませなんだ。」

死を前にした夢のようなひと時だったに違いありません。ところが朝露軒という三味線の達者な法師武者が三味線を弾くふりをして

“ほうびがあるぞ おくがたを おすくいもおす てだてはないか”

と、弥市に三味線で語り掛けます。私も(歌舞伎をよりよく理解したいがために)三味線(地唄・長唄)を習っていた(9年前の大震災を機にやめました。)からよくわかるのですが、三味線は一本の糸に16のツボがあり三本の糸だと48のツボがある(要するに基本48通りの音色がある。)ことになりこれに“いろは48文字”を当てることで三味線を弾きながらそのツボの音をもって互いの思いを通わせることができるものなのです。そのように音を聞き分けられるようになるまで長い練習が必要ですが、昔は目の見えない座頭同士が目明きの前で内緒話をするときよく使われたと聞きます。

勝家の家来の法師武者朝露軒は歌舞伎“盲目物語”にも、勝家方からすれば敵の秀吉方に内通した裏切り者として登場しますが結局は殺されてしまいます。実在の武者だったのかもしれません。

北ノ庄城落城の折までは小説も歌舞伎もほぼ似たような筋・場面になっているのですが、小説では弥市がお茶々を連れて逃げるところから歌舞伎とはずいぶんと違う展開になります。その話はこの“盲目物語”の最終章“その六”で語ることにします。