( “無法松の一生” その一 )

新型コロナウィルスのせいで観劇ができない為、過去に見たお芝居の筋書本を丹念に読み返しては感動を新たにしております。これまで見た千数百本の演目のほぼすべてに関して日にちや劇場、役者名、座席番号などをノートに記録し続けていますが、寸評も書いています。曰く「つまらん!」・「うるさいだけの芝居」・「意味不明、時間の無駄!」などなど後から読み返すと演者に失礼千万な表現も結構あります。その中で「感動!」と一言だけ書いたお芝居が平成79月宮城県民会館で見た田村高廣、長内美那子、荻島真一、大場久美子出演の“無法松の一生”でした。

浪曲師だった村田英雄がこの“無法松の一生”という歌謡曲で昭和33年に歌手デビューし、平成1473歳で亡くなるまで代表曲の一つとして歌い続けました。岩下俊作が昭和13年に発表した“無法松の一生(富島松五郎伝)”は、昭和時代までは映画やテレビドラマ化も何度も行われて多くの人が知る有名な小説でしたが、平成・令和の時代になると取り上げられることが少なくなり逆に多くの人が知らない小説になってしまったようです。

“私のお芝居礼賛”ぱあと94から97までのエッセイで取り上げたさくら隊が演じたお芝居がこの“無法松の一生”で、園井恵子は昭和18年公開の映画にも吉岡大尉夫人として出演しています。

粗筋は、明治30年の九州小倉を舞台に酒と博奕(ばくち)が大好きで喧嘩っ早いことから無法者の松で通称“無法松”という荒くれ者の人力車夫富島松五郎が、けがをした吉岡敏雄少年を助けます。敏雄の父親は陸軍大尉で、これが縁で松五郎は吉岡家に出入りするようになり大尉に気に入られます。しかし吉岡大尉が病気で急死してしまい一人息子の敏雄が気の弱いことを心配した吉岡大尉夫人が何かと松五郎を頼りにし、松五郎も夫人と敏雄に献身的に尽くします。敏雄少年も父親代わりのような松五郎によくなつきますが、成長するに連れて少しずつ松五郎の献身を疎ましく感じはじめるようになります。しかしそのことに松五郎は気が付きません。

成績優秀な敏雄が小倉中学4年の時の大正3年、第一次世界大戦の折戦勝を祝して提灯行列が催されますがその時敏雄の在籍する小倉中学の生徒たちと小倉師範学校の生徒たちの間で喧嘩が始まります。吉岡夫人はハラハラするのですが松五郎はかえって喜び、敏雄を励まし小倉中学に加勢します。このときはじめて敏雄は松五郎が恐ろしい面も持ち合わせている男だと気づきます。また中学生にもなった自分をいまだに“坊ん坊ん(ぼんぼん)”と呼ぶのも他の同級生の手前もあって嫌がるようになります。

敏雄が熊本の第五高等学校に進学すると次第に小倉の松五郎とは疎遠になっていきます。

そして小倉祇園太鼓の祭りの日、敏雄が夏休みで五高の先生を連れて帰省し、本場の祇園太鼓を聞きたがっていた先生の案内役をしているというのを耳にした松五郎が山車(だし)に飛び乗り撥(ばち)を取って、その頃はもう誰も叩ける者がいなくなっていた「流れ打ち」「勇み駒」「暴れ打ち」という長い間小倉市民が聞くことのできなかった本場の祇園太鼓を豪快に町中に披露します。敏雄のためになるならと一世一代の太鼓を叩いたのです。この場面は村田英雄の“無法松の一生”の歌の歌詞にもあってハイライトシーンの一つです。

それから数日後、松五郎は吉岡家を訪ね、吉岡夫人に対して自分の思慕を打ち明けようとしますが、伝えかねて去っていきます。その後吉岡家を訪ねることのなくなった松五郎は酒に溺れ、昔敏雄が通っていた小学校の校舎のそばで亡くなります。

小説では「大正857日、孤独の富島松五郎は48歳で死んだ。無邪気な子供たちの唱歌に守られて———。」と書かれています。映画だったかテレビドラマだったかでは大写しになった人力車の車輪がカラカラという音をかすかにたてながら空回りしやがて止まることで松五郎の死を表していたのが記憶にあります。

亡くなる直前松五郎の脳裡には授業を受けている小学生だった頃の、そして自分を小父ちゃん(おいちゃん)と呼んで慕ってくれていた頃の敏雄少年の顔が鮮やかによみがえっていたことでしょう。

松五郎が寝起きしていた三畳間にあった柳行李の中には毎年吉岡家から大晦日にもらったお年玉の袋が封も切らずにそのままにしてあり、そして貯金通帳が三冊出てきます。貧しい松五郎がどのようにして貯めたものか、自分のもの150円、吉岡夫人名義のもの200円、敏雄名義のもの300円がありそれを見た吉岡夫人は慟哭します。

小説にはその最後の二行として

「かくて富島松五郎は、死んで初めて吉岡夫人の手に抱かれそして初めて美しい情愛のなみだを受けたのである。」

と締めくくられていました。