平成22年4月10日新国立劇場で午後一時から井上ひさしさんの手になる東京裁判三部作の第一弾「夢の裂け目」が三時間に渡って公演されました。

敗戦直後の昭和21年夏頃角野卓造さん扮する紙芝居屋の元締め“田中留吉”が東京裁判の検察側の証人に指名され、紙芝居が戦争遂行に協力した(させられた)実態を法廷で喋ることになります。ところがこの証言をすることで戦争犯罪人を裁くはずの東京裁判に“田中留吉”が疑問を抱きやがてそのからくりに気がつくというストーリーです。

田中隆吉陸軍少将の名前を知る人はもう少ないと思いますが、東京裁判で検察側証人としてかつての上司だった東條英機元総理などを名指しで不利な証言をして彼ら被告の死刑が確定したとすら言われている人です。自分自身の戦争責任の訴追を免れる為にそのような証言をした裏切り者、日本のユダなどきわめて戦後の評判の悪い軍人でした。

角野さん扮する“田中留吉”が自分と名前が似ているというだけでこの田中隆吉少将に興味を持ち、やがてなぜ裏切者呼ばわりされるのを承知でそのような証言をしたのかに思いが到ります。

アメリカが日本の占領統治を行いやすくする為に昭和天皇の戦争責任に関し訴追しないように、アメリカと田中隆吉少将とそして東條元総理たちがあるからくりを考えます。それは戦争を強行したのは東條元総理とその一部のグループだけであってそれに引きずられた一般国民は逆に被害者でありそれは昭和天皇も同じであるとの既成事実を作る為に田中少将が軍事機密や国家機密を暴露しながら東條元総理たちの悪行を東京裁判の検察側の主張に沿うような形で暴き立て、その結果として天皇は訴追を免れ一般国民も自分たちに戦争責任はないと安心することになるのだが、それでは戦争責任に対して国民が真摯に向き合ったことにはならないのではないかというきわめて重いテーマのお芝居です。

2年半にも及んだ東京裁判の費用当時のお金で27億円は全て日本政府が負担し、東条英機元総理などA級戦犯7人が処刑された昭和23年12月23日は当時の皇太子(現天皇)の14歳の誕生日のまさにその日だったことはあまり知られていません。マスコミが東京裁判に関する問題提起をするのには格好の材料と思うのですが、意図的に触れない如くにすら私には感じられます。

井上ひさしさんはこの重いテーマを、新国立劇場の観客を前に紙芝居という小道具を通じて平易に解説してみせてくれました。主演俳優がコミカルな面とシリアスな面を併せ持つ角野卓造さんというのもぴったりでした。これが例えば江守徹さんや佐藤B作さんではこうもぴったりはいかなかったのではないかと思います。強いて言えば藤山直美さんがいいかもしれません。暗く重くなりすぎず、歌と踊りと笑いをふんだんに舞台に取り入れてしかもわかりやすいお芝居にしたてあげた井上ひさしさんの力量に脱帽の秀作でした。

私は井上さんとは物の見方や考え方が随分と違いますが、その作品にはどれも共感でき考えさせられることが多くこれまで11作品を舞台で見ましたが一つとしてはずれだったなというのがありません。

そして夕方四時過ぎの「夢の裂け目」終演後にナイスサプライズ!が待っておりました。
小沢昭一さんと演劇評論家の大笹吉雄さんの対談が(この日だけ)企画されたのでした。

御年81歳という小沢昭一さんは歯切れも悪くなくさまざまな井上さんとのエピソードを語ってくれましたが、対談相手の大笹さんの博識には舌を巻きました。小沢さんの出す演劇の話題に間髪をいれず「そのお芝居の演出がだれそれで脇役にこういう人がいて」というのをフォローするのです。小沢さんが「コント“オサネコ神社の神事”に出た何といったか小さい役者」と、とっさにはその役者の名前を思い出せなかったときにもすかさず大笹さんが「それ猿飛小助さんです。」と答えました。“猿飛小助”懐かしい名前です。白木みのるさんほどには愛嬌がなかったからかどうかあまりメジャーにはならなかったようですが、たしかに小学低学年ほどの体つきのそういうコメディアンがいました。私も多少歌舞伎界や演劇界に関して詳しいつもりでしたが大笹さんの足元にも及ばないことを痛感させられました。考えてみれば当たり前の話で、プロの演劇評論家と自分を比べるほうがおかしいのですね。

最後に小沢さんが「最近井上さん体の調子が悪いって聞いたけど早くよくなってほしいね。」と締めくくって夕方五時過ぎに二人の対談が終りました。

そしてたくさんいいお芝居を見て東京から石巻に気分よく帰る翌4月11日の新幹線の中で今度はバッドサプライズが待っておりました。

井上ひさしさんが、9日夕方五時半ごろ肺がんの為に亡くなっていたのです。小沢さんと大笹さんの対談のそのときはもう井上さんはこの世の人ではありませんでした。小沢さんも大笹さんもそして我々観客もその時点では井上さんの訃報を知らずに対談されていたのです。

おそらくお二人の対談を観客席の片隅か或いはもしかすると舞台の端っこのほうに座ってタバコをふかしてにこにこしながら聞いていたかもしれなかった井上ひさしさんのご冥福をお祈りいたします。

合掌

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