( ”ふるあめりかに袖は濡らさじ” その二 )

“その一”の冒頭に「美談には胡散臭さが付きまとう。」と書きましたが、“美談”には誰かがある意図をもって嘘を捏造し或いは真実を隠して一般大衆に分かりやすいような形で事実と異なるしつらえにしたものが多く存在するようです。一般大衆は自分の価値観に合う分かりやすさから、深く考えもせずに易々とだまされてしまいがちになります。しかもそれは社会が平和であるときはそれほど多く取り上げられることがなく、何らかの理由で世情不安定な時にこそ増えるような気がします。社会が暗いからこそ明るい話や美談がもてはやされるのであって、社会が明るいと美談はあまり人の心に響かないのではないかと思いますね。

幕末に外国船がやってきて世情騒然となったときに遊女亀遊の自死が美化・捏造され攘夷女郎として祭り上げられました。得体のしれない外国人の意のままになるよりは死を選んだという(捻じ曲げられて解釈された)亀遊の行為が、外国船を打ち払うという国論ともマッチし日本婦人の鑑としてすぐに称賛されたのです。そしてそこにはその美談を利用して一儲けしようとの輩も現れますが、これもありそうな話です。冷徹な商人である岩亀楼主人を責めるわけにはいきません。また事実を知っていながら美談を語る時にもう自分に酔ってしまい嘘をついている意識はどこかに飛んで、どうすれば聞く人にもっと感動してもらえるかだけを考えるようになったお園も責めるわけにはいきません。亀遊をネタにした講釈で客が喜ぶ姿を見ることは快感であったに違いないお園はエンターテイナーであったし、それで報酬もたくさんもらえるならもう言うことがありません。何も考える必要も余裕もなくなっていたのです。

また国家存亡の危機である戦争中も多くの軍国美談が生まれましたが、事実や当事者の意思とは裏腹に軍上層部の意向で戦意高揚のために事実が捻じ曲げられたものがほとんどでした。私が小学生の頃、美談を集めた本を買ってもらって夢中になって読み自分も大きくなったこういう人になりたいと無邪気に願ったのでしたが、成長するにつれ事実を知ってしまうとがっかりすることがしばしばありました。

平成の初めごろでしたかKという作家が“実話をもとにした”という触れ込みで貧しい母子の絆と蕎麦屋主人の心意気を描いた「一杯のかけそば」という童話を発表し、涙なしには聞けない美談として日本中にブームを巻き起こします。泉ピン子主演で映画化までされ、さらには国会の衆議院予算委員会で野党議員がこの童話の全文を読み上げてから質問に移る!という呆れるほどの過熱ぶりでした。しかしその後実話としては辻褄が合わないなどKによる創作ではないかとの疑惑が浮上しK自身の不祥事も重なってブームは急速に鎮静化したことがありました。“実話をもとにした”などと言わないで普通に創作した童話として発表すれば何の問題もなく名作童話として評価されたはずなのにと思います。作者が何故“実話”にこだわるのかわかりません。

上方落語家の桂文枝師匠が、随分前におそらくKのこの話を基にしたのだと思うのですが、自身の創作落語の中で同じ題名で似たようなストーリーの落語を拵え時々高座に掛けています。私としては文枝師匠の落語「一杯のかけそば」の方が泣けて笑えて優れているように思いますが、もし「実話を基にしました。」などと文枝師匠が言い出したら一瞬にして ホンマかいな ? という疑念が沸き起こるんでしょうね。

同じようなことは都市伝説と称する怪談話にも言えます。都市伝説を伝えようとする人々は一般大衆にもっと受けるようにあるいはより恐怖心が増すように創作部分を付け加えることが多いようです。“都市伝説の真相”などの番組や本を見ると、なあんだ ! と思うことがしばしばです。

美談も怪談もエンターテインメント、娯楽の一つとしてとらえるといいのかもしれません。勧善懲悪が大好きな日本人は古来、立派な人はどこまでも立派に、悪い奴はとことん悪く描くのを好むので忠臣蔵などのお芝居は真実をまるっきり無視して戯作者の創作で観客を楽しませ続けてきたのです。美談はどこまでも美しく、怪談はとことん恐ろしく作り上げようとするのは作者の本能ではないかとすら思います。

要するに“胡散臭い美談・怪談”とは深読みして考えずにここは真実だと思わせようとする作者の意図に素直に乗っかりつつ、実際は創作話だから娯楽だからと適当に楽しみ、たとえそれで利を得る人がいようとも、まあいいか ! こっちも十分楽しんだからな !! と鷹揚に構えるのがいいのかもしれませんね。

アハハ ! でもやっぱり私にはできそうにありません。