平成29年4月の歌舞伎座は長らく上演が途絶えていた「醍醐の花見」でした。平安の昔から桜の名所とされる京都の醍醐寺で慶長3年(1598年)3月に豊臣秀吉が催した花見の宴は“醍醐の花見”としてよく知られています。北野の大茶会と並んで秀吉一世一代の催し物と言われるこの花見のために秀吉は畿内あちこちから集めた700本もの桜をここ醍醐寺に植えたといわれ正室北政所や側室淀殿、松の丸殿、諸大名やその家族など約1300人が集まったと伝えられています。

舞台の幕が開くとそこは醍醐寺三宝院の庭。華やかで楽しい宴の中で秀吉側室淀殿と松の丸殿が盃を受ける順番を争いますが前田利家の正室まつの機転でその場は収まります。(これは史実だそうです。)秀吉が亡霊の仕業なのか正気を失って倒れたところへ3年前に謀反の疑いで秀吉に切腹を命じられ一族諸共非業の死を遂げた甥の秀次が亡霊となって 現れ恨みを晴らそうと秀吉に襲い掛かる(こちらはもちろん史実ではありません。)のですが、そこへ秀吉の側近石田三成と醍醐寺の僧義演が駆けつけて秀次の亡霊は姿を消します。そして秀吉が何事もなかったように皆に花見を楽しむようにと告げて幕となるほんの  30数分の短いお芝居です。豪華絢爛な花見の宴の一方でそのころ朝鮮出兵(慶長の役)の苦戦は続いていたし秀吉自身の老いによる衰えも顕著になっていたようで、秀吉がその時自覚していたかどうかこの生涯最後の晴れがましい席のわずか5か月後に61歳で亡くなっています。
平均寿命が男女とも80歳を超えている今日の61歳ではありません。“人間50年”と言われた時代の61歳はかなり高齢の部類だったはずです。歳をとれば体力・気力そして判断力も鈍るのはやむを得ないことですが、国の最高権力者が死ぬ間際まで権力にしがみつき 誤ったというよりとんでもない行動に出ると周囲にとっても迷惑至極どころか悲劇です。秀吉が亡くなる7年前には千利休を切腹に追いやり、その翌年には第一次朝鮮出兵(文禄の役)さらに自身の後継と定めた豊臣秀次の切腹、第二次朝鮮出兵(慶長の役)と悲劇は続きます。おそらく秀吉は50代半ばごろから少しずつ正常な判断ができなくなり始まったのではないかと思われます。

“老害”という言葉がありますが最晩年の秀吉はまさに豊臣家にとってもそして日本国にとっても老害そのものだったように感じられます。忠臣石田三成は秀吉の衰えと誤った 判断を理解しながらも秀吉の思い通りになるように腐心し周囲の反感を買っていきます。秀吉子飼いの武将たちは(秀吉に対してではなく)三成に対して不満を募らせ関ケ原の戦いの後の大阪の陣で豊臣家はついに滅亡(醍醐の花見からわずか17年後のことです。)してしまいます。
歌舞伎の「醍醐の花見」には豊臣家滅亡の遠因が幾つかちりばめられているような気がします。側室同士の確執は豊臣家身内や家来たちの争いに通じ豊臣家弱体化の原因の一つだと思われますし、一時的に秀吉が正気を失って倒れるのも体力の衰えによるものです。  そして甥の秀次の亡霊は秀吉に対する深い恨みを持った者たちが大勢存在していることを暗示しています。さらに秀次の亡霊が現れた際に駆け付けた家来が石田三成ただ一人ということは三成以外に側近と言われる家来はいなかった(あるいは秀吉が自ら遠ざけていた。)という原作者の解釈だったと考えられなくもありません。

“老害”とは嫌な表現ですが、政治や会社経営の世界では時として顕著に表れることがあります。創業者でもあるオーナー経営者がかなり高齢になっても自分の会社に君臨し続ける場合がよくあります。若いころに起業し辛酸をなめながらも一代で隆々たる会社に仕上げたオーナー経営者ですから当然周囲の誰もその決定には異を唱えることはできません。 しかし公認会計士という第三者的な目で見ていますと営業面や人事面そのほかで「アレッこれはちょっと違うかな?」ということがどうも70歳前後から始まることが少なくないような気がします。私はこれまで2人の経営者の方から「先生、会社にとって私がすでに   老害の領域に入ったと思ったら遠慮なく引退を勧告してください。」と言われたことがあります。このように自分自身“老害”に注意している経営者の方は実は問題がないのですが、多くの場合“老害”は自分では気が付きませんね。
自分にだけ通用する論理・理屈を強権をもって相手に押し付ける。
過去の自身の成功体験を美化しながら虚実とり交ぜ繰り返し語る。
他人にしてあげたことを針小棒大に恩に着せ、他人からよくしてもらったことは 忘れる。(記憶とは本当に都合のいいもののようです。)
このように老害の兆候はたくさんありますが、その結果として諫言・忠告してくれる人を逆に遠ざけてしまい、有能な人ほど会社を去っていって身内とイエスマンばかりが残る (そして不毛の争いをやがて始める。)という会社の行く末にとって恐ろしい事態に陥ることが実例としてありました。

お芝居を見ているとき私は全くと言っていいほど本業を思い出すことがないのですが、 歌舞伎の小品「醍醐の花見」を見ていて豊臣家滅亡の予兆から始まって老害による会社  経営の危うさにまで思いが到ってしまい豪華絢爛な舞台とは裏腹に気分が少し暗く沈んで歌舞伎座を後にしたのでした。