この間BSテレビで昭和45年に公開されたイタリア映画「ひまわり」が放映されました。私はあまり映画は見ないのですが、この作品は当時大変話題になったもので一面黄色に染まるロシアのひまわり畑の前で悲しげに佇むソフィアローレン(昭和9年生まれの彼女は当時36歳)の顔が印象的でした。ストーリーは第二次世界大戦中、ソフィアローレン扮するジョバンナの愛する夫アントニオがイタリア軍に徴兵されてロシア戦線に送られます。戦争が終わったにもかかわらず帰らぬ夫をジョバンナが必死に探し回り、遥々ロシアにまで行ってついにアントニオが住んでいる家を見つけるのですがそこにはロシア人の妻と幼い子供がいたのです。実はイタリア軍の負け戦で極寒の中を敗走する途中アントニオは雪の中で倒れロシア娘に助けられてそのまま二人は結婚し幸せな家庭を築き始めていたのです。絶望したジョバンナはイタリアに帰り、失意のまま数年が過ぎた時にアントニオがロシアからイタリアに住むジョバンナに会いに来ます。ジョバンナのアパートで抱き合って「また一緒に暮らそう。」とアントニオが言った瞬間に隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。ジョバンナも再婚していたのです。もう元には戻れないと悟ったアントニオはミラノ駅でモスクワ行きの汽車に乗りジョバンナが見送りますが、そこは数年前にアントニオが出征するときジョバンナが見送った思い出の場所でもありました。
学生時代にこの「ひまわり」を見た時には感動で涙が流れた記憶がありますが、今回それほどの感動を受けることはなかったのには少々驚きました。これには既視感があります。昭和35年4月から翌36年6月まで全65回放映された「快傑ハリマオ」というテレビドラマがありました。ストーリーは太平洋戦争直前に東南アジア全土の征服を目論む某大国の圧政に苦しむ民衆を助け、某大国の陰謀を破砕する正義の味方ハリマオ(実は日本の海軍中尉)の痛快活劇でした。三橋美智也が歌う“真っ赤な太陽燃えている、果てない南の大空に”で始まる主題歌は今でも歌詞カードを見ないで歌えます。昭和30年代子供向けのテレビドラマは「笛吹童子」「風小僧」「少年ジェット」「月光仮面」「七色仮面」「赤胴鈴之助」「少年ケニア」など多数放映されていましたが、小学校低学年だった私はこの「快傑ハリマオ」が最も血沸き肉躍るテレビ番組でしたので番組が終了した時は大いに落胆したものでした。ところがその4年ほど後になんとこの「快傑ハリマオ」がテレビで再放送されるというので大いに期待して見たのですが、あんまり面白さを感じなかったのです。つい数年前のあの感動・感激は何だったんだろうと子供心に不思議な思いにとらわれたのを覚えています。
観劇でも同様のことが何度かありました。私はこれまで1千数百本のお芝居を見てきましたがそのうちベスト5に入る演目の一つが平成14年9月帝国劇場での十朱幸代・市川右近(当時)主演の「残菊物語」でした。劇作家村松梢風作で明治時代の歌舞伎役者尾上菊之助と彼を支えたお徳の悲恋物語です。明治を代表する歌舞伎役者五代目尾上菊五郎の養子菊之助は養父菊五郎が随分と年を取ってから授かった実子幸三(後の昭和を代表する歌舞伎役者六代目菊五郎)の乳母お徳と深い仲になりますが、これが菊五郎の知るところとなり「ありゃ、おめえの弟の乳母だぜ。役者の家というだけにそんなふしだらをしちゃあ、世間様に申し訳が立たねえ。」と言われてお徳に暇を出して仲を引き裂かれます。菊五郎家を飛び出してお徳のもとに走った菊之助ですが東京の歌舞伎界からはもう追放同然です。何年も地方でドサ周りの芝居に出て糊口をしのぐ毎日ですが、ある時有力者の計らいで京都南座に出演する機会に恵まれこれが評判をとります。病床に付しているお徳は、養父菊五郎の許しを得て菊之助が東京に戻れることになったのと自分たちの仲も認めてもらったという吉報を聞きながら亡くなるのです。最後の20分は涙が止まりませんでした。“滂沱たる涙”という表現がありますがあの時はまさにそれでした。舞台や映画・小説などでごくまれに涙が流れることがありますがあれほどの涙はいまだに経験がありません。
平成27年6月三越劇場で劇団新派による水谷八重子(二代目)市川春猿(当時)主演の「残菊物語」の公演が行われ大変期待して観たのですが、演出も含めてまったくの期待外れだったのです。同じ演目であっても出演俳優や脚色・演出の違いによってこれほどまで面白味や感動に大きい落差があるとは予想外でした。
原因は何だろうかと自分なりに考えてみました。映画やテレビドラマは何度見ても当然にすっかり同じですから感動の度合いの落差は自分自身にありそうです。一回目の時は真っ新(まっさら)な状態で見ますから想定外のストーリー展開に心躍らすことが多くなり結果として予期しなかった感動に出会うことでいい作品だったと心に残るのです。ところが二回目となると当然にみんな想定の範囲内の展開ですから心躍らす度合いも薄まり結果として感動も一回目ほどには受けないということは容易に想像がつきます。感動の為のハードルが上がるのです。
“快傑ハリマオ”の場合、小学低学年で見た時の面白さは小学高学年になって感じられなかったのは自分自身が再放送までの4年間の心身の成長にも関係しているような気がします。自分が子供の時は子供向けの番組を当然面白いと感じますがある程度成長してからは子供だましを理解してしまい同じ番組を見てつまらなく感じることも容易に想像がつきます。
ではお芝居はどうでしょうか。舞台は一か月というような単位で毎日同じ演目を公演し続けますが、映画やテレビドラマのようなすっかり同じ出来栄えというのはありません。平成24年に亡くなった森光子さんの代表作“放浪記”は昭和36年10月から平成21年5月までの48年間で通算の舞台公演回数が2017回の多きにわたりましたが、おそらく全く同じ出来栄えというのはなかったものと思われます。それどころか様々な要因で同じ演目でありながら全く違う印象のお芝居になったことも数多(あまた)あったのではないかと考えます。劇場・俳優・演出・舞台の設え・公演時間などなど映画やテレビと違って観劇の環境は大きく変わる場合があるのでそれにつれて観た印象も違ってくるのだと思います。
「残菊物語」の場合、感銘を受けた平成14年の時は、劇場は帝国劇場で舞台の設えも座席数1917席の大劇場らしくいわば贅沢に大道具・小道具が準備されており広い舞台で縦横に演技を披露する共演者は杉浦直樹(故人)・藤間紫(故人)のベテランのほかに市川春猿(当時)・遠野凪子など新進気鋭の人気者が脇を充分固めていました。しかし感動が薄かった平成27年の場合は三越劇場という座席数が514席しかない小さな劇場で、舞台が狭いので様々な制約があったためか“縦横な演技や、贅沢に大道具・小道具”とは言いかねました。さらに共演者も波野久里子・松村雄基で帝劇の出演俳優と比べて見劣りがする(この辺は好みの問題かも)のは否めません。公演時間も帝劇に比べてかなり短かかったので大事な場面を端折って芝居を進行させねばならず、いきおい感動も薄くならざるを得ないのは仕方のないことだったと今では納得しています。芝居制作にあたり時間とお金と人を充分にかけたものかどうかというのも受け手観客側の感動の度合いに大きく影響しそうです。
こうなると感動的なお芝居に出会えるかどうかというのは、ひとえに“一期一会の運”かもしれません。これまで私の観劇の経験則からいって、震えるような感動を受ける素晴らしいお芝居に当たる確率は100本観てわずかに1本か2本程度でした。“下手な鉄砲でも数撃ちゃ当たる” “(私は買ったことがありませんが)宝くじだって買わなきゃ当たらない”のです。とにかくそのような素晴らしいお芝居に出会うために、(天罰に当たるまで)これからもできるだけたくさん劇場に足を運ぼうと思います。