“ 俊寛 その二 ”

江戸時代の享保4年(1719年)初演の近松門左衛門作の“平家女護島”というお芝居のなかの法勝寺(ほっしょうじ)の僧俊寛は、自分を犠牲にして他の人を助けるという美談仕立てのいわばヒーローとして描かれました。美談とは「聞いて感心するような立派な行いの話」のことです。そしてそこには、どうもウサン臭さが付きまとうことが多いような気がします。

では実際の俊寛はどうだったのでしょうか?平家物語には詳しくその記述があります。 歌舞伎芝居で丹波少将成経と恋仲になる島の娘千鳥は出てきません。

    平家物語巻第三上 「赦文の事(ゆるしぶみのこと)」

             「足摺の事(あしずりのこと)」

        巻第三中 「少将都還りの事(しょうしょうみやこがえりのこと)」

             「有り王島下りの事(ありおうしまくだりのこと)」

「赦文の事」には、平清盛の娘徳子が懐妊したものの体調がすぐれないため高僧による加持祈祷をおこなったところ平家によって滅ぼされた人々の悪霊・死霊そして鹿ケ谷の変によって鬼界が島に流された俊寛らの生霊が徳子にとり憑いていることが判明します。(ホントかね?)そこで鬼界が島の流人に恩赦を行うことになるのですが、清盛は「俊寛はわしの世話で立身出世した者、それがけしからん振る舞いに及ぶとは、俊寛めを赦すとはとんでもないこと。」と吐き捨てます。

「足摺の事」には約2ヶ月かかって赦免船が鬼界が島に到着したとき(芝居にも登場する)上使の丹左衛門尉基康が浜辺で「康頼殿、成経殿はおいでか」と大声で呼ぶ(俊寛の名前は呼ばなかった。)とたまたまその浜辺に居合わせた俊寛が日頃焦がれ焦がれるほどに強く待ちかねていた赦免船がとうとうやってきたと慌てふためいてこけつまろびつ上使の前に駆け付け「我こそ京の都より配流された俊寛めにござる。」と名乗り出ます。きっと三億円の宝くじに当たった瞬間の心持だったに違いありません。しかし俊寛に手渡されたその赦免状には「鬼界が島の流人、少将成経、康頼法師、赦免」とだけ書いてあって俊寛の名前がありません。ならば礼紙(包み紙)に書いてないか、さらに赦免状の端から端まで何度読んでもありません。ほどなく成経と康頼もその場にやってきます。俊寛は頭が真っ白になりながら「我々三人は同じ罪のはず、平家が我を忘れたるか、書記が誤って書き落としたるか。」と嘆き悲しみこれは夢だと思い込もうとします。そして俊寛は成経の袂(たもと)にすがり「この俊寛がかような憂き目にあうのも、もとはと言えば成経の父である大納言成親(なりちか)がつまらぬ謀反を起こしたからだ。」と早速他人のせい!にし始めます。そして「この島に置き去りにしないでくれ、せめて九州になりともつけて下され。」と恥も外聞もなく懇願しますがもちろん許されません。

やがて出船の時刻になると俊寛は赦免船に乗っては降り、降りては乗って我が身も乗船したいそぶりを繰り返します。俊寛を島に置いたままとうとう船が出るとこれを見た俊寛は浜辺で狂気のように艫綱(ともづな)に取りすがり引きずられて浜から海へ入り膝から腰にそしてやがては背丈ギリギリまで必死の思いで綱を握り続けますが、身の丈も及ばなくなると今度は船端につかまりながら「これおのおの方この俊寛を見捨てて行きやるというか。日頃の情けもあったものか。せめて九州の地になりとも」とかきくどきます。しかし上使の基康が船にとりついた俊寛の手を払って沖へと漕ぎ出してしまうのです。俊寛はやむなく浜辺に取って返すと倒れ伏し、子供が母を慕うように地団太を踏んで(これが“足摺”です。)「これ乗せていけ、連れていけ」と喚き散らします。やがて我に返った俊寛は小高い岩場によじ登り沖合はるかに去った船に向けていつまでも声を限りに呼びかけます。呆然自失のまま浜辺で一夜を明かした俊寛は、「丹波少将成経は情け深い人故、都への帰参をとりなしてくれるもの」と頼みに思って身投げすることを思いとどまったということです。因みに平家物語絵巻に描いてある俊寛が岩場から赦免船に両手を挙げて呼びかけるシーンが歌舞伎の型に取り入れられているようで、歴代の俊寛役を務めた役者たちがこの絵巻物を参考にしたことは疑いないと思われます。 

みっともない、カッコ悪い、恥の上塗りなどなどあらゆる悪口雑言をぶつけられそうな俊寛の往生際の悪さです。歌舞伎の“俊寛”で演じられたカッコ良さのかけらもありませんが、あのような状況になると人間はきっとみんな俊寛のような振る舞いに及ぶだろうと容易に想像がつきます。実際は平家物語に書かれているよりもっと品のない哀れな振る舞いだったかもしれません。

平家物語全般に言えることですが、美談仕立ての構成にはしておらず事実(ホントに事実かどうかは、ホントのところ分かりませんが)をあまり美化することなく人間臭さも織り交ぜて記しているのは作者不詳(兼好法師の徒然草では信濃前司行長が作者とは書いてある。)ながら原作者の素晴らしい腕だと考えています。ただ漢字よりも草書体のひらがなが多い原文は私などには全くと言っていいほど判別不能で、たとえば“俊寛”は原文では“しゆむくはん”と表記されています。

では、俊寛はその後どうなったのか?

平家物語にはその後日譚が書かれてあり “ 俊寛 その三 ” で申し述べることにします。