( 大尉の娘 )
平成13年7月新橋演舞場で初代水谷八重子23回忌・花柳章太郎37回忌追善興行と銘打って劇団新派により中内蝶二作“大尉の娘”他が公演されました。因みにロシアの文豪アレクサンドル・プーシキンも同名の小説を1836年に発表していますが、こちらはロシア青年貴族の恋と冒険を描いた散文小説で新派の“大尉の娘”とは全く違うものです。
粗筋は、大正時代の中頃長野県の山奥の小さな村で退役陸軍大尉の森田慎蔵が教員をしています。連れ合いには早くに先立たれ一人娘露子は村長の甥の六松と恋仲になって子供までなしたが結婚が叶わず子供を里子に出して東京に奉公に出ていてわびしい一人住まいです。
そこにその晩執り行われる六松の婚礼に出席するようにとの依頼が森田慎蔵にあり、村の実力者の頼みに怒りを抑えて承諾します。ところがその直後偶然露子が東京から帰省してきます。東京の土産物を取り出し平穏な生活ぶりを報告する露子でしたが、子供に合わせてほしいと懇願すると慎蔵は厳しく叱りつけ許しません。その後に慎蔵は六松の婚礼を隠して友人に会いに行くと嘘を言って出かけていきますが、その直後訪ねてきた隣家の主人から昔の恋人六松の婚礼の件を聞かされた露子は、衝撃のあまり我を忘れて今婚礼が行われている村長の家に走って放火、逃げ場を失った花嫁を焼死させてしまいます。慎蔵は火事場で拾った見覚えのある露子の草履と乱れた姿で家に戻ってきた露子を見て放火犯人は露子と確信します。詰問する慎蔵に露子は「はじめはそうするつもりはなかったが婚礼を見ているうちに逆上して我を忘れ火を放ってしまった。」と泣きながら告白します。そして「罪の償いのために死のうと思うがその前に一目子供に会いたい。」という露子の懇願に慎蔵は初めて「子供はとうに死んだ。」と伝え、覚悟を決めた二人は共に死を遂げます。
このように身も蓋もないような悲しい話ですが、森田慎蔵を演じた杉浦直樹(平成23年没)は「日本人としてどこか懐かしく感じるところがある、惨劇でなく見終わったとき清々しく感じてもらえる悲劇にしたい。」と新しい視点を当時語っていました。
人を死なせてしまった放火は確かに重罪ですが、現代的な感覚からすれば父親は娘に自首するよう諭し、遺族に充分な補償をし、娘が懲役刑によって罪を償った暁には又二人でひっそりと暮らそうと考えるのが普通ではないかと思います。しかし退役したとはいえ元陸軍軍人で大尉という将校だった森田慎蔵は直情的に“死んでお詫びを”と考えてしまったのです。
江戸時代佐賀藩士山本常朝によって書かれた武士道の書「葉隠」に“武士道とは死ぬことと見つけたり”という極めて有名な一節があります。この一節は、“目的のためには死をいとわないのが武士道精神だ”としてアメリカとの戦争で日本軍による体当たり攻撃や玉砕・自決を正当化・美化する文言としてよく使われ、現在もそのように解釈することが多いようです。森田慎蔵も死んでお詫びをすることが最良の償いだと軍人らしい発想で親娘共々死を選んだのです。しかし「葉隠」を読むとその解釈は誤りだと気が付きます。「葉隠」では、“最良の行動ができる心境とは自身を捨てたところつまり自身が死んだ身であるとの心境からの判断が最良の結果を生む。”ということを言っているのであり“死ぬことが最良”とは決して述べていません。“武士は常に死を覚悟していれば武士道が自分のものとなり一生落ち度なく奉公ができるものだ”という締めくくりとなっており、人は誰しも死ぬよりは生きる方がいいという自然の摂理を著者山本常朝は否定などしていないのです。
たとえ失敗しても致命的なものでなければ、生きてさえいればその失敗を糧に再起ができることが多いのです。死んでしまえばそれで終わりです。アメリカとの戦争では優秀な将官や兵士ほど負け戦の際にその多くが自決の道を選びました。合理的発想の多い欧米人には理解不能です。陸軍でも海軍でも生延びようと思えば生延びられた状況にもかかわらず“死んで負け戦のお詫び”を形で示した軍人が沢山現れました。私はそのような将兵のあの顔この名前が次々に浮かびます。彼らが生き延びて再び米軍に立ち向かったらもっと違う展開になっていたはずなのにと残念に思います。
戦争末期になってそのような優秀有能な将兵がみんな戦死してからは、負け戦の際“責任を取って日本に帰国!”しようとした将官が多くでました。あの顔この名前がすぐ思い浮かびますが、“そんな者こそ死んでしまえばよかったのに!”と思ってはいけないんでしょうね、ホントは。やっぱり私はまだ「葉隠」の精神がまだしっかり身についていない様です。再読することにしましょう。