陸軍 1/48 三式指揮連絡機(タミヤ)

陸軍 1/48 三式指揮連絡機(タミヤ)

もったいないの呪縛 その2

日本海軍の主力戦闘機の零式艦上戦闘機(零戦)は合計1万機以上も作られ、陸軍の主力戦闘機だった1式戦闘機(隼)も5千機以上作られています。また大東亜決戦機とまで謳われた4式戦闘機(疾風)も3千機以上作られています。ところが戦争後半になると百機単位で進攻してくるアメリカ軍機に対し多くの場合 10機や20機程度の飛行機しか迎撃に飛び立つことができないのです。私は長い間これが不思議で仕方がありませんでした。何千機も作っているはずの日本の飛行機はいったいどこにいたのだろうかと。

実は粗製乱造とメンテナンスが悪いせいで機数は揃うのですが、飛ぶことのできない飛行機が多数あり結局は敵と戦う前に廃棄処分になってしまったのだそうです。海軍の主力 陸上攻撃機の1式陸上攻撃機は(96式陸攻や銀河という同型機を含めれば)合計で3600機余りも作られていますがこのうち1367日続いた太平洋戦争中に直接の戦闘により失われたのは僅かに1200機程度でその倍近い2200機はメンテナンスが悪いことなどにより自然に消耗していったのです。(200機程度が終戦時残存。)

貧乏国日本はその当時故障した兵器はもちろんのことその部品すらも修理に次ぐ修理を加えてとことん使うのが常識でした。複雑な精密機器の塊である飛行機はそのどの部品が不具合でも戦闘に耐えないことは明白なのですが、もったいないの呪縛にかかっている日本は全ての部品を整備兵の超人的な努力で長持ちはさせました。しかしかえってそのことが仇になりちょっとの衝撃や偶然の不幸のせいでたった一つの不具合が生じた為にその飛行機が飛べないといういわば”角を矯めて牛を殺す”状態が続出したのでした。

4式戦闘機(疾風)は特に故障しやすく稼働率の低い機体だったと言われています。文献によって大きく数値は異なりますが疾風は昭和19年の制式採用から終戦まで平均40%(たった!)の稼働率だったそうです。つまり60%の疾風は飛び上がることができなかったのです。稼働率が10%や20%という航空部隊も少なくありませんでした。

昭和19年から20年にかけて東京の防空を担当した陸軍飛行47戦隊では、刈谷整備小隊長の発案で”もったいない”の呪縛を取り払いエンジンを含めた全ての部品に耐用時間を定めてそれを過ぎればたとえ不具合がなくても無条件に交換したのだそうです。このような整備の考え方は当時のアメリカ空軍では常識だったのですが貧乏国日本では到底考えられないことでした。さまざまな非難も多かったはずですが刈谷整備小隊長がこの方針を終戦まで貫き通した おかげで飛行 47戦隊はアメリカ空軍並みに稼働率90%超を維持することができたのです。戦争は節約競争ではありません。どうすれば最も有効に戦えるのかを常に考えねばなりません。

会社経営も同じことです。これを節約することで生み出す利益と失われるものを数字的に 冷静に比較し本当の意味でもったいないのかどうかを判断すべきと考えます。