江戸時代の天保年間、歌舞伎の市川宗家の七代目団十郎が“家の芸”として様々工夫を凝らした18の演目を歌舞伎十八番として選定しました。「助六」や「勧進帳」、「暫(しばらく)」など現代まで人気演目として繰り返し上演されているものもあれば全く上演が途絶えてしまったものもあります。よく得意なことを“十八番”と表現することがありますがそれはこの“歌舞伎十八番”から来ています。(“おはこ”とも読みます。)

昭和に入り市川猿之助の澤瀉屋(おもだかや)の家の芸として「黒塚」や「小鍛冶」などの“猿翁十種”と「連獅子」や「すみだ川」などの“澤瀉十種”が選定されています。平成87月“澤瀉十種”のうち「夕顔棚」が、先代市川猿之助と段四郎兄弟によって演じられました。

この舞踊劇は「楽しみは 夕顔棚の 夕涼み ・・・」という古歌を題材にして旧盆の暑い盛りの夕暮れ時に老夫婦が夕顔棚の下で湯上りに酒を酌み交わしながら涼んでいる情景を表したもので、長い年輪を重ねた二人の夫婦愛が直に伝わってくるようで見ていてほのぼのとした気分にさせられるお芝居でした。

25分程度の短い舞踊劇で、それほど大した筋があるわけではないのですが、田舎の百姓家の庭にしつらえた夕顔棚の前の縁台で段四郎扮する爺が湯上りに茶碗酒を飲みながら夕涼みをしています。そこへ猿之助扮する婆も風呂から上がって浴衣をひっかけて縁台に腰かけて爺のお酌で立て続けに二杯茶碗酒をあおって今度は爺にお酌します。聞こえてきた盆踊りの唄声に爺は婆に促されて昔躍った盆踊りを踊ると婆も二人の若い日を懐かしみながら肉付きのいいお尻をユーモラスに振りながら一緒に踊ります。気の遠くなるような長い年月野良仕事や機織り仕事に精を出した末の何の屈託もない穏やかな時間です。老夫婦が互いに「干し大根の皺だらけ」だとか「女相撲の売れ残り」などとほほえましい掛け合いをしますが、「女相撲の売れ残り」とはなんという面白い表現でしょうか!一瞬にしてイメージが湧いてきます。場面によっては相手を最大限けなすことにもなりかねない毒のある言葉ですが、そこは長く睦まじく連れ添った夫婦の間のやり取りですからそれも笑いに変えてしまいます。

そこへ里の若い男女(市川笑三郎・春猿)が盆踊りに誘いに来ますが「後で行くから」と断り、仲良く踊りながら去っていく若い二人を見て遠い日の自分たちの面影を偲び爺は味な気分になって婆のそばへ寄り添います。その途端に婆はくしゃみをして入れ歯がどこかへ飛んでしまいせっかくのいい雰囲気も形なしとなります。当然観客は大笑いです。そして年齢を忘れた老夫婦が、お囃子に誘われて盆踊りに行く所で幕となります。

クーラーのなかった時代、夏の暑さをしのぐために日本人は様々な工夫を凝らしました。夕涼みもその一つです。浴衣姿で縁台に座り団扇(うちわ)を使って日中の暑さを時間をかけてゆっくりと吹き飛ばし労働で疲れた体を癒すのです。昔は家の前に夕方になるとあちこちで縁台を出して半裸の男衆や前をはだけた浴衣姿の女衆がよく涼んでいました。

「裸でも まだ脱ぎ足りぬ 暑さかな」とともに「夕涼み よくぞ男に 生まれけり」という川柳があります。縁台に座る男はパンツ一丁でもいいのですが女はそうはいかないので“ああ男でよかった!”というのを表現したものでまさにその通りです。

この“夕顔棚”という舞踊劇は現代人が忘れてしまったかつての日本の原風景とも言うべき夏の日常の一コマを鮮やかに浮かび上がらせ、改めて郷愁を思い起こさせてくれる名作でした。

歌舞伎座の中は冷房がガンガン効いていますから暑いはずはありません。ところが舞台の夏の暑さを感じさせるしつらえや照明、猿之助丈と段四郎丈の演技で観客側さえも夏の暑さが充分伝わってきたことも付け加えておきます。

“ぱあと102”に書いた“ぢいさんばあさん”と構図は同じですが、年輪を重ねた老夫婦と対比するかのように若い夫婦も舞台に登場させて観客に長い年月が経過したことを意識させています。舞台ではほんの数十分経過しただけなのに設定では何十年という時の経過を観客が感じとるのです。

このお芝居を見て私は中国の故事「一炊の夢」を思い出しました。

昔、唐の盧生という人が旅の途中に邯鄲(かんたん)の町で道士から出世が叶うという枕を借りて寝ると立身出世の末すべてを手に入れる夢を見たが目を覚ますと宿の人に頼んでおいたお粥がまだできあがっていなかったという故事から、一生の栄耀栄華もお粥ができあがるわずかな時間でしかない短いものだという意味です。

“ぢいさんばあさん”も“夕顔棚”も人の一生は儚いものだから今を大切に生きよう、そしてその時が来たらじたばたすることなく目を閉じようという意味が込められているような気がします。

私が歌舞伎座でこの“夕顔棚”を見たのが今から24年も前です。その時の出演俳優の中では当然物故者も何人かいます。爺と婆を勤めた(先代)市川猿之助丈と段四郎丈はもう舞台に上がることが今はほとんどありません。里の若い女を演じた市川春猿はその後新派へ転じ河合雪之丞と名乗って歌舞伎を離れました。改めて巡る年月の早さに舌を巻く思いです。