( “南の島に雪が降る” その三 )

お芝居には(映画も同様ですが)様々な制約があります。上演時間もその一つで長編小説を原作通り全部演ずることはできない場合が多く、当然のように少なからぬ場面を省略したり時間を短縮するため演出を変えたりして芝居を構成する必要があります。芝居を観る前に原作本を読んでしまうと、すんなりと芝居が理解できるものの、アレッあの場面がないぞ! オヤッここ違うかな!! などとお芝居に違和感を持ってしまうことがよくあります。

加東大介さんが著した小説“南の島に雪が降る”は文庫本で280ページに及ぶ量なので、お芝居では随分と多くの部分が削られ演出も原作と異なる部分が多くありました。幸いなことに私はこの戯曲を最初は加東さん自身主演の映画で見て次に芝居を見てから最後に文庫本で原作を読んだので、観劇の際に違和感を持つことはありませんでした。ドキュメンタリーとも言うべきこの小説には映画や芝居では取り上げることのできなかった興味深いエピソードが沢山綴られていましたので“その三”以降ではそれらをご紹介します。加東さんによる多少の創作や誇張はあるにしても、ここに書いてあることはニューギニアのマノクワリでほぼ実際に起きた出来事だと考えていいのではないかと思います。

昭和1810月前進座の大坂公演中に召集令状(赤紙)を受取った加東さんは慌ただしく両親と姉の沢村貞子が住む東京の実家に戻り翌日入隊します。この日のことを沢村貞子(平成887歳で没)は、小説“南の島に雪が降る”の後記に次のような文章を寄せています。

「翌朝グリグリ坊主になった彼は、赤いたすきをかけ私たちの目の前で深々と頭を下げそのまま黙って出て行った。肩を落とした後姿が何とも寂しかった。厚い胸、太い腕、身体つきは堂々としていたが加東は根っからの役者だった。彼にふさわしい場所はただ一か所 舞台だけなのに。」

役者加東大介が大日本帝国陸軍軍人になった瞬間でした。どんなにか芝居を続けたかったか、どんなにか後ろ髪引かれる思いで実家を後にしたことか。御国の為とはいえ、両親も姉も加東の苦衷を思ってどんなにか胸がつぶれる思いをして送りだしたか察するに余りあります。どう見ても兵隊に向かない者まで根こそぎ召集された時代でした。戦局がそこまで悪化していたのです。

前進座の役者だった加東さんはそこそこ顔が売れており(人徳と言うべきか)軍に入隊しても自身の知らないところで芝居に係る人脈が勝手にできあがっていました。前進座の加東さん(芸名は市川莚司)の舞台で三味線を弾いていたことのある叶谷二等兵もその一人でした。戦地でまさに偶然に、芝居を通じて関わりのある人と同じ部隊になったのです。この後叶谷二等兵は加東さんにとって大切な相棒の一人となります。マノクワリのジャングルの中にある病院は、病院とは名ばかりでそこに入れられるということは死の宣告と同じでした。治る見込みのある兵隊は部隊の病室に寝かされますが、その見込みのない者が運ばれただ寝かされるだけなのです。栄養失調、マラリア、デング熱、アメーバ赤痢、熱帯性潰瘍などろくな治療などあるはずもなく入院患者は骨と皮ばかり。楽しみはなくぼんやりと故郷のことを思いながら、絶望感の中ただ死を待っているだけです。叶谷二等兵は軍務(といっても食料の芋の世話中心)が終わった夜になると三味線を弾いてこの病院の患者を慰めるようになりました。今よりもはるかに三味線が身近だった時代です。患者の感激如何ばかり。「こんなところで三味線が聞けるなんて・・・・。もう死んでもいいです。」と涙を流しながらつぶやいて、本当にその晩息を引き取った老兵もいたといいます。三味線の功徳です。

“その二”にも書いた通り補給途絶のマノクワリでは生き物は何でも口にしましたが、それも“乱獲”で徐々に少なくなっていきます。当然兵隊同士による情けない喧嘩が多発します。その時決まって怒鳴るセリフが「なに言ってやがんでぇ。どうせ死ぬんじゃねえか。」

これに危機感を抱いた軍司令部は兵隊たちの情操教育を演芸に求めます。物好きや道楽の余興ではありません。皆が生き延びるための切実な手段の一つでした。

叶谷二等兵の三味線で加東さんと元フラメンコダンサーだった前川二等兵が踊った第一回公演は予想以上の大成功をおさめます。気をよくしたマノクワリ駐屯第二軍参謀長の深堀少将は専門の演芸分隊を編成するよう指示、ここから本格的に加東さんの奮闘が始まります。