( “南の島に雪が降る” その四 )

兵士の情操教育を目的にするからには、ただゲラゲラ笑わせるような酒席の余興のような演芸ではなく本式の芝居が必要と考えた加東さんは、その意図のもとにマノクワリ演芸分隊員を集めます。

すると深堀少将から「劇場を建設し常打ち小屋にして将兵に交代で見せるように」との願ってもない命令に加東さん達は狂喜します。「戦時下貴重な兵力と物資を使っての演芸などもってのほか!」と反対する幹部もいたといいますが軍司令部の積極的な支援の下に、敗戦を4か月後に控えた昭和204月とうとうマノクワリ歌舞伎座が完成します。花道すら備えた本格的な劇場だったといいます。

完成するまでの間に二つのエピソードがあります。

一つは戦前人気を誇った榎本健一一座にいて顔の売れていた如月寛多(きさらぎかんた)が兵隊の中にいて皆の話題になっているということで加東さんは演芸分隊に入れたところこれがなんと偽物だったのです。本物の如月寛多をよく知っていた加東さんだから見破ったのですが、上司の村田大尉に相談したところ大尉はこう言いました。「ね、加東君オレたちはここで死ぬかもしれないんだよ。もう生きて帰れなければ内地の長谷川一夫よりはここにいるニセモノの如月寛多の方が有難味がある、俺はそう思うがね。死んでいくときに“ああ、俺は如月寛多を見た”と満足できたらいい功徳になるというものだよ。」その昔、内地の市村座で菊五郎・吉右衛門に血道をあげたことがあるという村田大尉の神様のような言葉に加東さんも感動したといいます。ニセ如月寛多は翌年マノクワリを離れて内地に皆が帰還するまで“如月寛多”を演じ続け、多くの兵隊たちの心を慰めました。

もう一つは加東さんにこの絶望的状況下にもかかわらず内地に帰れるチャンスが巡ってきたことです。深堀少将に対して内地に召還し仙台管区司令官に栄転の命令が電報で届いた時、少将が加東さんを自分の転属先に連れて行きたいと言い出したのです。信じられないような生延びられる幸運です。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に描かれたカンダタの心境を思い出したかもしれない加東さんでしたが、様々な葛藤と苦悩の末この地にとどまって演芸分隊員と共に芝居をする決心をして内地帰還の話を断ります。村田大尉にその旨報告すると大尉は「よかった、ありがとう。君のことだから残ってくれるとは思っていたんだが、残れと頼めるものでもないし、祈っていたのだよ。」と優しい目をくしゃくしゃにして言ったといいます。もしこの時加東さんが(命惜しさに)帰国していれば後に“南の島に雪が降る”という名作は生まれなかったことになります。

完成したマノクワリ歌舞伎座はなんと電化されていました。全マノクワリにたった2台しかない発電機のうちの1台を、内地に転属した深堀少将の言い置きでマノクワリ歌舞伎座に寄贈されていたのです。電球も(撃墜した敵機の中にあった)マイクも差し入れられ、久久に体感した電気の明るさと電流を通したマイクから放たれる声に300人の観客はもうそれだけで興奮状態です。

電気の燭光もそう大きくはなかったはずですが、長い間ローソクやランプの灯りしか見なかった兵隊たちにとってそれはもう目も眩むようなまぶしいものであったに違いありません。

9年余り前の平成23311日東日本大震災に見舞われた当地石巻は、地震に続く津波で壊滅状態となり、床上浸水となった我が家に閉じ込められた私達は20日間も電気と水道が使えませんでした。3月末にようやく復旧してまばゆいばかりの電気の明りを久久に見た時は、神々しいまでの光に感動を受けたのと同時に復旧に必死の努力を傾けてくれたであろう東北電力の職員さんたちに感謝の念が浮かびました。“(兵隊さんならぬ)電力さんのお陰です。電力さんよ有難う。”と歌いたい気分でした。

昭和20年4月29日マノクワリ歌舞伎座開場の日に観衆として集まった300人の兵隊さんたちが受けた感動と感謝の気持ちの何十分の一かを味わうことができたのでした。