時代劇の衰退が止まらないようです。「時代劇はなぜ滅びるのか」という本すら出ている始末です。平成を生きる若者にとって江戸時代以前の歴史はすでに自分たちの国の歴史ではなく外国の歴史という感覚になっているようですし、また時代劇に精通した優秀な脚本家・監督・プロデューサーそして役者も少なくなってしまったこと、さらには娯楽の多様化などいくつもの原因があるのでしょうが何より戦前の倫理観が今の人たちに理解されなくなってきたことが大きいような気がします。(良い悪いは別にして)戦前の日本人と平成の日本人はこれが同じ民族なのかと疑問に感じるほどに劇的に変貌してしまい時代劇のストーリーが理解されにくくなったのです。
平成29年5月の明治座は片岡愛之助主演の“月形半平太”でした。幕末京都の茶屋うれし野を勤王の志士月形半平太が出ていくときに霧雨が降っていたので、なじみの芸妓梅吉が 「月様、雨が」と傘をさしかけようとすると「春雨じゃ、濡れてまいろう」と半平太が答える名セリフのシーンが有名です。昭和9年東海林太郎が歌ってヒットしたそのものズバリ「月形半平太の唄」という歌謡曲すらありました。昭和40年代ぐらいまでの日本人なら誰もが知る日常でもよく使われた人気のセリフでしたが、今となってはほとんどの人が知りませんね。私もお客さんの会社を辞す際に軽い霧雨が降っていて会社の方が傘の心配をして下さるときにちょっとキザに「春雨ですから、濡れてまいります。」と言うことがあります。平成の初めごろまででしたか、「オッ月形半平太ですかな。」と言われたことがありましたがその後は誰にも言われたことがありません。
数々ある名セリフにはいくつかの基本要件があると私は考えていますが、そのうちの一つにその短いセリフを聞いた瞬間に(たとえ目をつぶっていても)情景が目の前にきれいに広がるというのがあるように思います。
茶屋うれし野を後にするとき見送りに来た芸妓梅吉が霧雨に気づいて唐傘を開いて差し掛けるのを半平太が優しく断って悠然と歩いて去っていくというシーンが(たったそれだけのシーンではあるものの)、「月様・・・」というほんの19文字のセリフを聞いただけで(たとえ舞台を見ていなくても)鮮やかに脳裏に浮かび上がるのです。
松尾芭蕉の俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」も一瞬にしてその情景が目の前に現れますが、これと相通ずるものを感じます。
このお芝居はもともと大正8年新国劇が上演して大好評を博し現代まで演じられている(昭和40年代後半以降はあまりないようですが)ものですが、幕末に徳川幕府を倒して新しい日本を作るために奔走する長州藩士月形半平太と芸妓梅吉との恋を絡ませながら、新選組の偽の手紙におびき寄せられた半平太が京都大乗院本堂で斬り合いの末、盟友桂小五郎らの救援も間に合わずついに明治の夜明けを見ることなく絶命するというものです。
歌舞伎役者片岡愛之助は半平太を熱演していましたが、最後の新選組との殺陣(たて→要するにチャンバラです。)のシーンは歌舞伎特有の様式美を見せる冗漫な斬り合いだったので、新国劇の島田正吾や辰巳柳太郎・大山克巳といった殺陣の名手によるスピーディでリアルな斬り合いを知る者(もちろんテレビ映像の中で、ですが)としてはちょっと物足りなさを感じました。
大正6年(1917年)澤田正二郎が中心となって結成された劇団新国劇は島田・辰巳らのほかに緒形拳・若林豪・石橋正次・五大路子らの人気俳優を輩出し、「月形半平太」や「国定忠治」「大菩薩峠」など多くのヒット作品を上演したものの、時代劇の衰退と歩調を合わせるかのように昭和54年に倒産、昭和62年に解散してその70年の歴史を閉じました。続いていれば今年(2017年→平成29年→昭和92年→大正106年です。因みに明治149年でもあります。)で創立100周年だったのに、悲しいことです。
私はあまり映画を見ないのですが、アメリカ版時代劇たる「西部劇」もその衰退という意味では日本の時代劇と酷似しているような気がします。上記文章の”時代劇”を”西部劇”に置き換えるとこれが見事にハマることに我ながら驚きます。時代劇における侍は西部劇ではさしずめガンマン、チャンバラは決闘に相当し、正義の剣士や悪代官・悪徳商人に相当する役どころも西部劇には当然あります。かつての時代劇が日本映画の花形であったように西部劇はひと頃のハリウッドの娯楽映画の花形でした。1939年(昭和14年)に封切られ、名監督ジョン・フォードが仕切り名優ジョン・ウェインが主役をつとめた西部劇のモニュメント的名作「駅馬車」をはじめ、「荒野の七人」や「OK牧場の決闘」などの名作が次々と生まれ、クリント・イーストウッドやスティーブ・マックィーン、ポール・ニューマンなどの名だたる名優を世に送り出しました。
また月形半平太の「春雨じゃ・・・」の名セリフのシーンは、(シチュエーションは全く違いますが)西部劇では「シェーン」のラストシーンに悲しく流れる“シェーン、カムバック!”を彷彿とさせます。実際その少年の呼び声が緑の山々にこだまする忘れ得ぬ情景は、かの「春雨・・・」同様たとえ目をつぶっていても目の前にきれいに現れからです。
しかしながら時代が大きく変わり日本の時代劇と同じく倫理観の変化などの理由で西部劇のストーリーそのものが理解されにくくなり、また娯楽の多様性も相俟ってハリウッドもアニメや各種CGはたまた3Dなどヴィジュアルに訴えるものが主流になり、精神の内面にまで踏み込んでくる名作が廃れてしまいました。
日本の時代劇の衰退同様アメリカの西部劇凋落に心を痛める昭和世代のオールドファンが時の流れとともにこれから増々少数派になっていくのは、これもやはり悲しいことです。