令和1年9月の歌舞伎座昼の部は江戸時代の侠客“幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)”でした。江戸時代に人足の手配などを手掛けた侠客は、義侠心をもって弱い者の味方をする武装集団で、町内の争いの仲裁をしたりボランティアを行ったりと庶民からすると今日のやくざや暴力団とはずいぶんと違った受け止められ方をしていたようです。お芝居や講談、落語などの世界ではヒーローとして描かれることが多く今月歌舞伎で取り上げられた幡随院長兵衛もその一人で江戸時代初期に生きた実在の人物です。
粗筋は、派手な衣装で徒党を組み無頼を働いた白柄組(しらつかぐみ)と呼ばれた旗本集団(やはり実在の集団です。)と長兵衛率いる侠客グループの抗争を描き、長兵衛に遺恨を抱く白柄組頭領の水野十郎左衛門が“仲直りの宴会”と称して長兵衛を自身の屋敷に招待しこれを闇討ちにするというものです。
水野の使いが長兵衛宅にやってきた時、この招待は闇討ちにする口実だと長兵衛の妻・子供もそして子分たちも気が付いて水野の屋敷に行くのを止めようとするのですが、これを断っては怖気付いたと言われて男が廃ると長兵衛は「人は一代、名は末代」の名セリフを残して水野の屋敷に向かいます。
昭和の後半から平成・令和の御代まで全く戦争の影がなく平和な日本にあってこれから死地に赴かねばならないということを想像するのは困難であり、この舞台をリアル感をもって見る事は難しいのではないかと思います。まして自分の命よりも名誉を重んじて死にに行くということは、たとえそれが建前であろうとも理解を超えてしまいます。
役者が観客の理解を超えるストーリーを演じるということは極めて難しいものだと思いますが、長兵衛を演じた当代松本幸四郎はこれを見事に表現しました。市川染五郎を名乗っていた時分は線の細い役者だと感じていましたが、平成30年1月に十代目を襲名してからはズシリと来る重みも備わって、今回の舞台で観客に自分の命と引き換えに名を残すという気持ちを充分表現したように思います。
宴会の席でわざと酒を袴にかけられて風呂を勧められ一度は断るものの強く勧められてやむなく風呂場に入るのですが、その狭くて暗い湯殿で水野とその家来により殺されてしまいます。断末魔の長兵衛が苦しさのあまりか「早くとどめを ささねえか。」という絞り出すような声が観客の涙を誘います。
ところで風呂場は闇討ちには格好の場所のようです。薄暗く狭いし自身は裸ですから刀などの武器はありません。襲撃する側からすればこんないいお膳立てはありません。
平安時代末期の平治元年(1160年)平治の乱に敗れた源義朝(源頼朝や義経のお父さんです。)は東国に落ち延びようと昔の家来筋の長田忠致を頼りますが、長田は平家方の恩賞目当てに義朝に入浴をさせて風呂場で殺します。剛勇をもってなる義朝も丸腰ではどうしようもなかったと見えて「我に木太刀の一本なりともありせば。」と叫んだと伝えられています。
また江戸城を築いたといわれる太田道灌も、主君扇谷定正(私のご先祖様!ではありません、多分、いや間違いなくきっと)があまりに有能な家臣道潅に不安を抱いたために、やはり自身の館に招いて風呂場で暗殺しています。その際に道潅は「当方滅亡」と叫んだと伝えられ、要するに(自分のような忠義な家来を殺すとは)扇谷家もいずれ滅亡するだろう!という意味だそうですが実際にその通りになりました。因みにこの場合の「扇谷」は“おうぎや”と読むのではなく“おうぎがやつ”と読みます。アハハ!やっぱりうちのご先祖様ではありませんね。(当たり前!)
こうしてみると昔の暗殺は、刀や槍などを使って人力で実行することが多く被害者が息絶えるまで少し時間があったためそこに物語性が多く生まれたような気がします。後世の脚本家が暗殺の事実を題材にしながら縦横に想像力を膨らませて死ぬ間際のアクションやセリフを、さも見てきたかのように創作するのです。そして小説や舞台、映画などで繰り返し演じられることでさも真実であるかのような錯覚に多くの人がとらわれるのです。ジュリアス・シーザーの「ブルータスお前もか。」とか板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず。」などの名セリフはみんな後世の作り話ですからね。
今はどうでしょうか、爆弾や銃砲で一瞬にして暗殺が実行されてしまうためにどうもそうはいかないようです。そのかわり監視カメラにその残酷な一部始終が音声までも含めて映し出されてしまうようになり、脚本家による創作が入る余地が狭められ一般人を感動させるような暗殺関連の物語が少なくなったと感じるのは気のせいでしょうか。