熊沢天皇をご存知でしょうか?14世紀の中世日本で神武天皇を初代とする天皇家が北朝方と南朝方に分裂し、足利尊氏を後ろ盾に武力に勝る北朝方が勝利して現代に至っています。ところが大正時代に南朝最後の天皇である後亀山天皇の末裔を名乗る熊沢寛道(昭和41年没)が第118代熊沢天皇として密かに(あるいは勝手に)即位し、「我こそは正当な天皇なり。」と名乗り出て一時物議を醸したことがあったのです。終戦後の昭和26年には、北朝の系統である昭和天皇を“正当な南朝天皇から帝位を奪い国民を欺いているから天皇不適格である。”として東京地方裁判所に訴えた(当然に棄却)こともありました。
令和1年9月紀伊国屋ホールでの劇団青年劇場公演「もう一人のヒト」はこの熊沢天皇を題材にして、戦争末期に狂信的な軍人が戦勢挽回のためにこれを利用しようとし、さらに皇族ながらこれを抑える宮様の物語です。
粗筋は大日本帝国の敗戦を目前にして小沢陸軍中将が戦勢挽回のために正当な南朝系統の天皇を頂き国民がその新天皇のもとに一致結束国難に当たるべきだとの信念から、たまたま東京都内の偏屈な靴職人杉本純一郎の家から南朝関係の資料が出てきたことを幸い、この杉本を新天皇に祭り上げ国民を再度まとめたうえで日本軍の退勢を立て直そうと画策するのです。皇族の為永親王(モデルは終戦直後数ヶ月内閣総理大臣を務めた東久邇宮→平成2年103歳で没)にも協力を仰ぐもののすでに敗戦不可避と考えている親王から「これから20年後30年後の日本を考える時、恥だとか責任論を振りかざして徹底抗戦をするのが果たして賢明なのかどうか。」と諭されてしまいます。そして敗戦、危うく天皇にでっちあげられそうになった杉本夫婦が焼け跡で「東京もこんな焼け野原になっちゃってね。」「こうもひどいことになるとは思っちゃいなかったな。」という会話で幕となります。
明治になるまで日本の演劇には悲劇と喜劇という区分はありませんでした。明治時代に西洋の演劇が入ってきてからこのような区分けができたのだそうですが、井上ひさしさんの戯曲を見るまでもなく悲劇と喜劇は背中合わせに構成されることが多いようです。この「もう一人のヒト」という戯曲は劇作家飯沢匡の手により昭和45年に初演されたものですが、“大日本帝国の滅亡”かどうかという究極の悲劇ながら平和な令和日本の観客からすると狂信的な小沢中将が滑稽に感じられるほど偏狭な思考に陥っており、もしかすると自分はホントに南朝天皇家の末裔かも!と一時的にせよ思った靴職人杉本も、そして敗戦を目前に控えながらも豪勢な造りの防空壕で優雅な日々を過ごす為永親王も笑いの対象として描かれていて喜劇とも呼べる作品に仕上がっています。
劇中に隅田川で夕食のおかずにしようと釣りをする庶民の姿が描かれており、これまでなかったような丸々と太った大きい魚が沢山釣れて喜ぶシーンがあります。わかりにくいのですが実はこれも悲劇と喜劇が背中合わせのシーンなのです。昭和20年3月10日の東京大空襲で火から逃れようと多くの人が隅田川に飛び込んで亡くなっていますが、その死体を食べた魚が太ったとも言われています。そしてもう一つの理由が人々の糞尿です。戦前は東京都民の糞尿は船で運んで海洋投棄されていたのが戦局の悪化によって船の確保ができなくなり、各家庭の糞尿は直接川に捨てることが常態化するようになったのだそうです。そのためその人間の糞尿を食べた魚が太ったということです。まったく“ブラックなユーモアここに極まれり”というような奥深い釣りの場面なのでしたがなぜか、セリフでそのような説明がなかったようで今一つ観客の理解と笑いが乏しかったのは残念でした。
昭和19年7月サイパン島が陥落したことによって日本がアメリカとの戦争に勝つ見込みはほとんどゼロとなりました。そのため様々な人達が日本をなんとかしようと敗戦に至るまで命を賭して奔走し続けました。歴史の結末をよく理解していてかつ平和な時代に生きている我々からすれば、色々な理屈をつけて当時の人達を断罪する、卑下する、笑い飛ばす、茶化すことは容易であるように思います。“後出しじゃんけん”のようなものですからね。それでも当時の人達は(方向は違えども)みんな真剣にこの国の行く末を思って必死に努力しようとしたのです。そこをよく頭に入れながらこのような戯曲を見ると、より理解が深まるような気がします。
「もう一人のヒト」いい作品でした。