“ 越前一乗谷 その二 ”
歌舞伎“越前一乗谷”は華やかな花見の宴の直後に勇壮な合戦シーンに転じ、その後朝倉義景の側室小少将(こしょうしょう)が尼となって戦国の世の無常を嘆くシーンにつながるという有為転変をビジュアル的に舞台で見事に表したお芝居となって観客の心に迫る作品となっています。
ところでお芝居で演じられる場面はみんな史実に基づいて作られていると考えている観客は多いのではないかと思いますが、実は全くそんなことはなくいかにすれば観客に強く訴え掛けられるかを念頭に脚色・創作・捏造のオンパレードなのです。悪玉はとことん“悪い奴”に描き、善玉はすべてが正しい行いの“良い人”に描くのが一般大衆にとってわかりやすく、かつ支持されるということを芝居を作る側の人達はよく理解していたのです。
“実録”など大仰な名称を冠しても実際のお芝居となると多少史実も入っている程度でその多くはというよりお芝居の名場面のほとんどは創作ですから、吉良上野介や明智光秀などの悪役に仕立て上げられた歴史上の人物は朝倉義景も含めてあの世でどんなにか地団太を踏んでいるかと可哀想になります。史実を知れば知るほど「俺は、そんなことやってない!言ってない!!思ってもないよー!!!」との恨み節があの世から聞こえてきそうです。
さて歌舞伎“一乗谷”ですが、史実に外れた話が多くて少し戦国の歴史に詳しいと違和感を覚えてしまいます。
まず第一に朝倉一族が花見の宴を催している時に織田軍が攻め込んできたとのご注進が入る歌舞伎の場面です。花見というからには3月から4月にかけての季節だと思うのですが、実際に織田軍が一乗谷を攻め滅ぼしたのは暑い夏の盛りの8月ですから花見の頃ではありません。
次に歌舞伎では織田軍により突然奇襲攻撃を受けた如くになっていますが、これも違いますね。史実では近江に侵攻してきた織田軍を朝倉の軍勢が迎え撃ったものの大敗を喫し一乗谷の居城に逃げ帰るところを追いつかれて壊滅、信頼していた身内にも裏切られた義景は賢松寺というお寺で自害に追い込まれるのです。41歳だったと言います。一乗谷が花見の宴の最中に奇襲攻撃を受けた訳ではなく、また義景は合戦により討ち取られた訳でも全くないのです。
さらに歌舞伎では一乗谷を攻めた総大将は羽柴藤吉郎になっていますが史実では柴田勝家で、この時の戦功により勝家は越前の地を信長により与えられることになります。
そして一番違和感を持ったのが、朝倉義景の側室だった小少将が朝倉家滅亡にもかかわらず生き延びて羽柴藤吉郎(秀吉)の側室になったという設定です。お家滅亡の時に小少将も死んでいますから側室になどなれるわけがないし、ましてさらに生きながらえて尼となって義景の菩提を弔ったという話も全くの創作なのです。秀吉も怒っているでしょうね、「俺は朝倉攻めの総大将じゃあない、悪く描かないでくれ!まして小少将を側室にしたなど名誉棄損だ!!俺の想い人はお市の方だけだー!!!」とあの世でまくし立てているに違いありません。
何年か前に越前一乗谷へ行ったことがあります。山と山に挟まれたところに復元された町並みが広がり武家屋敷のほかに町屋・職人屋敷など様々な家々が立ち並び278ヘクタールに及ぶ遺跡全体が国の特別史跡に指定されています。役場の職員でしょうか、当時の服装をして観光客のお相手をしてくれるのも人気の一つになっています。
山裾には朝倉義景の館と母親の館そして小少将の館の基礎石・土台だけが残っています。(館の復元はされていません。)基礎石の上にまごうことなくそれぞれの館が建っていたわけですから下手に復元することなく、ああ今から450年も前にこの土台の上で義景や小少将がありふれた日常を送っていたのかと自由に想像をめぐらすことの方が当時をよりよく偲ぶ方法の一つとなりそうです。
福井は歴史上敗者が多いと言ったら偏見でしょうか。朝倉義景のほかにも巌流島の決闘で宮本武蔵に敗れた佐々木小次郎は福井出身(異説あり)ですし、南北朝の内乱で南朝方の英雄新田義貞は越前藤島の地で敗死しています。また“私のお芝居礼賛ぱあと88”の盲目物語りにも出てきますが、柴田勝家も越前北の庄城で妻お市の方と共に自害にしています。
目出たいことではないというものの、こういった敗者を逆手に取って福井の観光振興に役立てられそうな気がするのは(福井ファンである)私だけですかね。