( ゆうれい貸屋 )
名もない長屋の住人たちの哀歓を描いた作品を数多く手がけた山本周五郎が昭和25年に発表した“ゆうれい貸屋”は、昭和34年に歌舞伎に取り入れられ初代尾上松緑と七代尾上梅幸によって明治座で初演されました。
“ゆうれい貸屋”とは奇妙な題名ですが、読んで字の如しで本物の幽霊を貸し出す商売を始めた桶職人弥六のお話で、周五郎の作品では滑稽なものに分類されています。この“ゆうれい貸屋”は歌舞伎でも肩の凝らないコメディとしてごくたまに公演されます。歌舞伎と聞くと多くの方は訳の分からない難しい演劇というイメージを持たれているかもしれません(演劇とすら思っていない方も少なくないかもしれません。)が、何の予備知識もないまま観劇してしまうと実際に肩の凝る理解困難なお芝居も確かにありますからあながち否定できません。しかしそのような演目ばかりではなく緊張を解きほぐす一服の清涼剤と言ってもいいようなコメディも少なからずあるので歌舞伎の入門編としてはいきなり“義経千本桜”だの“菅原伝授手習鑑”などの大作を見るよりは、こういったアハハ!と笑えるお芝居から入るのがいいのではないかと思います。
さて“ゆうれい貸屋”の粗筋です。江戸京橋に住まいする桶職人(10代目坂東三津五郎扮する)弥六は働いても働いても楽にならない暮らしに嫌気がさしすっかり怠け者になってしまっています。連れ合いの(片岡隆太郎扮する)お兼はそんな弥六を発奮させようと実家へ戻ります。そこへ生前辰巳芸者で侍に騙されてその男や男の家族を取り殺した(中村福助扮する)染次が現れます。怨念の幽霊であるため成仏できず彷徨(さまよ)っているのです。そんな染次を弥六が見初め一緒に暮らすことになるのですが、幽霊だけあって昼間は出ることができず夜間だけ洗濯や煮炊きを行い昼夜逆転の新婚生活が始まります。そして染次は店賃(たなちん)を払うために幽霊を貸し出す商売を思いつき、同じ幽霊仲間の(中村七之助扮する)お千代や(18代目中村勘三郎扮する)又蔵を呼び出して繁盛します。客の依頼を受けて驚かしたい人に近寄り「お化けだぞー」と言って驚かしたり、恨みつらみを恐ろし気に伝える仕事です。ところが弥六の前に又蔵が現れさっき恨みごとを言いに行った客の女房の前に出たが怖がる風もなく逆に散々悪態をつかれて追い払われてしまったと告げます。そして又蔵は「この世もあの世も金の世の中だが何事も生きていればこそだ。」と言い残して消えていきます。弥六は又蔵の言葉に動かされ、生きているうちに一生懸命仕事をしなければと改心します。そして染次が成仏できるように一心に般若心経を唱えて幕となります。
私は歌舞伎だけは映像ではなく歌舞伎座で見るべきだと考えています。新型コロナウィルス蔓延のせいでなかなか劇場に足を運ぶことができませんが、映画館(シネマ歌舞伎)だとかテレビ映像ではやはり歌舞伎本来の迫力や感動が充分伝わってこないような気がするのです。花道や桟敷席、二階席や三階席と檜舞台など江戸情緒たっぷりのしつらえが席の周囲に感じられてこその歌舞伎観劇だと思うのです。テレビ映像だとほとんどの場合舞台しか映しません。しかも演技をしている役者を中心に映すのでどうしてもカメラマンの主観で舞台映像ができあがってしまうことになります。セリフを言っている役者の傍でちょっとした顔の表情や仕草をしている役者を見たいと思ってもカメラアングルから漏れることもあり、残念に思うことがしばしばあります。
18代目勘三郎と10代目三津五郎という名コンビの掛け合いで見事なお芝居に仕上がった“ゆうれい貸屋”はほんの1時間余りのお芝居でしたが爆笑の連続でした。今思うと18代目演じる屑屋の幽霊又蔵の滑稽な演技と共に「何事も生きていればこそだ、もう沢山だ。」という呟きは、18代目にしか出せなかった味のある演技だった様な気がします。ほかの役者ではあれほどの観客の共感を得ることができなかったのではないかとすら考えています。18代目の隠れた代表作といってもいい作品を、最前列で舞台間近く見る事の出来たのは幸せだったとしか言いようがありません。今から13年前の観劇当時は「又見れるさ!」と簡単に考えていたように思いますが、まさか18代目との一期一会のお芝居になろうとはそのとき夢にも思いませんでした。
今回過去の筋書本を読み返してみて改めて「ああそうか、18代目はもういないのか。」と気が付き、悲しくなりました。