陸軍 1/48 三式戦闘機飛燕2型改(RSモデル)

陸軍 1/48 三式戦闘機飛燕2型改(RSモデル)

表現は具体的に

三菱商事の元の社長で槙原さんという方が日経新聞に“私の苦笑い”というタイトルで談話を載せていました。社長就任直後に社内公用語を英語にという方針を打ち出した(結局は挫折)のだそうですが、その理由は英語が最もビジネスに向いている言葉だからだとか。

槙原さんが若いころ親しくされていた4ヶ国語に堪能なフランスの財閥経営者に「仕事で重要な決断をするとき何語で考えるのか。」と質問したとき「適度に正確で適度にあいまいな英語だよ。」と答えたそうです。フランス語は緻密な言語で契約書をフランス語にすると細部の文言にこだわってなかなかまとまらないが、その点英語は機能的でビジネスの相手に自分の考えが正確に伝わりその一方で表現が煩雑になって契約交渉が隘路に迷い込むこともないのだそうです。日本語は文学的には優れているがあいまいで交渉ごとには向いていないともおっしゃっていましたが全く同感です。

ただあいまいな表現が多い日本語の抽象性が想像力をかきたてて、芸術性を高めるのではないかと思いますから文学やお芝居にはもってこいですね。河竹黙阿弥の手になるお芝居の名セリフは何度聞いてもうっとりします。日本人に生まれてよかったと実感します。この名セリフを英語で聞いてもおそらくあれほどの感動は受けません。というよりも英語に上手に翻訳できるんですかね。(逆にこの点については例えばチェーホフやドストエフスキーの芝居をロシア語以外の言語で表現してもロシア人が受けるのと同じ感動を果たして受けることができるかどうかはなはだ疑問です。)

“適度に正確で適度にあいまいな“英語は俳優同士の掛け合いに名シーンが多いように思います。俳優同士の気の効いた洒落たセリフの応酬は目の前に情景がはっきりと映し出される感じがしますが残念ながら日本映画やお芝居にこのような名シーンは少ないと思います。特にアメリカ映画によくあるいわゆる法廷モノが日本ではあまり育たないのもその辺に理由がありそうです。

さて太平洋戦争における陸戦のターニングポイントになったガダルカナル島の戦いでは日本軍が三万人の戦死者(うち8割以上が餓死病死)を出して敗退したのですが、現地軍に対する東京大本営の命令が極めて抽象的だったのはよく知られています。アメリカ軍に奪取された飛行場を奪い返すために攻撃しようとした末端の兵士には「・・・・・飛行場に突入、もって聖旨に添い奉れ。」という表現の命令が出されたのです。聖旨とは天皇の思し召しお考えの意味ですが、10年ほど前に幸運にもガダルカナル島を生き延びた兵士のインタビューを聞いたことがあります。この兵士は飛行場に突入してどうすれば聖旨に添い奉ったことになるのか、アメリカ兵を一人でも余計に殺せばいいのか自分が死ねばいいのかさっぱりわからなかったためにとにかくワーワーいいながら前に出るだけ(後には逃げ回る)だったと言います。

日本軍の命令は文語調の格調高い表現が随所にありその趣旨がはっきりしないことが多くありました。これは戦いを強要される側にとっては致命的です。

海戦のターニングポイントになった昭和17年6月のミッドウェイ海戦も同様です。歴戦の南雲艦隊の大部隊に与えられた命令がミッドウェイ島攻略なのか敵艦隊撃滅なのかがはっきりしなかったのです。それでなくてもあいまいな表現が多い日本語にさらに趣旨を明確にしなかったのでは命令を受けた側は混乱するばかりです。この混乱がミッドウェイ海戦における南雲艦隊大敗の原因の一つになっていると思われます。

会社経営も同じです。契約書の文言や部下に対する命令などは具体的客観的でなければなりません。名文である必要はありません。これらの文言や命令は文学ではないのです。  昨今日本のプロ野球選手がたくさんアメリカ大リーグに挑戦し活躍しています。(いまや最も重要な対米輸出品ではないかと冗談が出るくらいです。)彼らが大リーグに行くとき日本人には考えられないような分厚い契約書を交わすのだそうです。そこにはきっとあいまいな表現がなくこのような場合こうする、こうなったときにはこうなるといったきわめて具体的で明快な文章が並んでいるのだろうと思います。
“誠意を以って善処する”とか“できるだけ”といったあいまいな表現は“できるだけ”使うべきではありませんね。