歌舞伎を中心に芝居を見るようになってから早十数年になる。40年余り前の幼児期に見た勧善懲悪の絵本の世界が目の前の舞台に広がるとき,えもいわれぬ郷愁にかられるのが嬉しくてほぼ毎月,宮城県石巻市から一泊二日で東京へ芝居見物に出かけるのです。

土曜日 歌舞伎座で昼の部と夜の部を観て、一晩泊まって日曜日 新橋演舞場等の昼の部を観て石巻に帰ってくるという強行軍です。私は当地で公認会計士事務所を経営していますが、観劇している2日間は 会計のカの字も税務のゼの字も頭には思い浮かばず芝居に没頭することが出来ます。

観劇には私一人で行くのですが歌舞伎座の観客1900人、新橋演舞場の観客1400人は当然誰も顔見知りの人はいないので、この2日間というもの殆ど誰とも喋ることがありません。満員の客席は誰一人私を省みることがないので非常な孤独感に襲われるのですが、普段仕事で大勢の人と接しなければならない身としてはこの孤独感がたまらなく貴重なのです。

“飲まない・打たない・買わない” 私は舞台での観劇がほとんど唯一の趣味ですが、お芝居の素晴らしさを何とか子供達にもわかってもらいたいと長年思っていました。

平成14年1月・2月に芸術座で泉ピン子主演の“渡る世間は鬼ばかり”が公演されることになり、これなら観劇が初めての小学生(4年生 当時)の娘でも抵抗感なく見ることができると確信して連れて行きました。芸術座最前列中央の席2枚のチケットを苦心の末手に入れたのです。芸術座は最前列の席と舞台とが極めて近く首は少し疲れますが手を伸ばせば俳優さんに触れるぐらいの近さで、息遣いまで聞こえてきます。時々汗や唾まで飛んでくることもあります。

案の定 娘の目は舞台に釘付けで最初から最後まで一生懸命見ていました。しめしめ連れてきた甲斐があったぞとこちらも満足していましたが、舞台も終盤になったとき娘が私の耳元で“今ピン子さんと目が合った”と嬉しそうに小声で囁くではありませんか。観劇のマナーとして開演中はしゃべってはいけないなど基本的なことは事前に話して聞かせていましたが、それを忘れるぐらい嬉しかったんでしょう。

ところがその後さらに娘にとって奇跡が待っていたのです。終演直前に出演した役者さん達が布袋に入った節分の福豆を観客へのサービスとして客席に投げるときです。何と泉ピン子さんが最前列の娘にいの一番にハイヨと福豆を手渡してくれたではありませんか。そして娘を見てにっこりと微笑んでちょっと手を振ってくれたのです。娘の狂喜乱舞・欣喜雀躍いかばかり。隣に座っていた私は思わずピン子さんを拝みました。あまりの嬉しさと有難さで涙が流れました。ピン子さんにすれば些細なことだとは思いますが、テレビの中の世界の人というイメージしかないあこがれのピン子さんから直接福豆を手渡してもらえるなどということは信じられない出来事に娘には感じられたに違いありません。

幕間の時間にピン子さんとえなりくんのキーホルダーとテレフォンカードを自分のお小遣いの中から買って大満足していた娘でした。本当に親としてこんな嬉しいことはありません。宮城県石巻市から往復約8時間あまりをかけて娘を東京に連れて来た甲斐がありました。きっと娘は生涯この時の感激を忘れないことと思います。これを機会にお芝居の楽しさをわかってくれれば最高なのですが果たしてどうでしょうか。本人は“この次も絶対来る“と帰りの新幹線の中で何度も言っていました。
私は泉ピン子さんの舞台は平成9年3月の帝劇での公演以来2度目です。

私は公認会計士・税理士という職業柄、多くの人と接しなければならないのですが、実はその時(10年ぐらい前からですが)ピン子さんの口調の真似をしています。ピン子さんは長い台詞を立て板に水の如く小気味よくしゃべるのですが、時々一瞬ですが多少口ごもり気味にゆっくり丁寧に(それでいて冗漫ではない)しゃべるときがあるように思います。スラスラしゃべれるのでしょうが、わざと丁寧にしゃべって観客に考える間を与えようとしているのかなと感じています。
亡くなった落語家の古今亭志ん生さんが「落語とは“緊張と緩和”の芸である」と言っていましたが、最初から最後まで立て板に水の台詞では観客は疲れるし大事なところを聞き逃すかもしれません。そこで一瞬観客の緊張感を緩和する意味でわざとゆっくりしゃべることは大変に素晴らしい芸ではないかと考えています。私もお客さんとしゃべるとき(倒産やらリストラやら深刻な相談が多いのですが)これを真似して大切なところはわざとゆっくり言い直したりしています。

さて大満足で芸術座から石巻の自宅に夜遅く戻って来たのですが、あまりの嬉しさに私と娘はピン子さんに舞台上からわざわざ福豆を直接手渡してくれたことへのお礼状を書きました。もちろんピン子さんの住所なぞはわからないので公演中の芸術座気付けで出したのです。
ところがその3~4日あと、夜に宅急便屋さんが私の自宅の玄関に来たので娘がハンコを持って受け取りに行ったところ、「ピン子さんから宅急便が届いたー!」とこけつまろびつ大声で知らせに来るではありませんか。まさかそんなことがと思いながらもコタツから飛び出したら間違いなくピン子さんからでした。宅急便の袋を受け取るとき思わず手が震えてしまいました。いまだに信じられません。娘と共に福豆の御礼の手紙を送ったとき、実はこの手紙をピン子さんに読んでもらえる確率は5分5分だろうな、いや芸術座気付けでしか手紙を送る術がなかったので、もしかしたら芸術座ではそのような手紙は受け付けていませんと送り返されるのではないかと密かに心配していました。

タレントのMSが離婚したとき奥さんが記者会見で贈り物が大量に贈られるので処分に困るというようなことを言っていましたが、きっと売れっ子の芸人とはそういうものだろうなと思っていました。泉ピン子さんももっと輪をかけてあちこちから沢山の贈り物やファンレターが届くはずだから、到底私どもの手紙は手にとってもらえることすらないだろうと、娘には言いませんでしたが勝手に考えていました。
それが直接読んでもらい丁寧なお返事とテレフォンカードや手拭いそして置物まで娘宛に贈ってもらえるとは夢想だにしませんでした。「最前列の席で身を乗り出して見ている小学生がいるということで楽屋でちょっと話題になっていた」のだそうです。役者さんはその役になりきるためにある意味で狂気が必要だし、舞台の期間中は舞台に関係のないことは一切無視するものだと聞いております。それでも私どもの為に返事等を送ってもらったということは娘にとって奇跡が2度起きたようなものではないかと思っています。

思えば役者という稼業はなんと言う素晴らしい職業でしょうか。ピン子さんにすればほんの些細なことに違いありません。便箋2枚の手紙を書く以外の作業はきっと付け人が行ったのだとは思いますが、たったそのことで私達親子にこんな素晴らしい感動を授けてくれたのです。

昭和32年4月に開場した芸術座は、それから40数年余り数々の舞台を世に出しました。廊下には1枚づつですが全ての公演のパネル写真が飾られています。今は亡き益田喜頓や中村勘三郎そして若かりしころの八千草薫や香川京子などが輝いていました。昭和30年代40年代の舞台はもちろん私は映像や写真でしか触れることはできません。10年後20年後に、“あの時見ときゃよかった”と後悔しないように出来る限り劇場に足を運ぼうと思っています。そして時々隣に娘が座ってくれればもうこんなに嬉しいことはありません。

(平成15年3月の東北大学経済学部会報に寄稿したものです)

(平成15年3月の東北大学経済学部会報に寄稿したものです)