歌舞伎を中心にお芝居を見るようになってから早20年近くになります。40数年余り前の幼児期に見た勧善懲悪の絵本の世界が目の前の舞台に広がるとき,えもいわれぬ郷愁にかられるのが嬉しくてほぼ毎月,宮城県石巻市から一泊二日で東京へ芝居見物に出かけるのです。

土曜日 歌舞伎座で昼の部と夜の部を観て、一晩泊まって日曜日 新橋演舞場等の昼の部を観て石巻に帰ってくるという強行軍です。私は当地で公認会計士事務所を経営していますが、観劇している2日間は 会計のカの字も税務のゼの字も頭には思い浮かばず芝居に没頭することが出来ます。観劇には私一人で行くのですが歌舞伎座の観客1900人、新橋演舞場の観客1400人は当然誰も顔見知りの人はいないので、この2日間というもの殆ど誰とも喋ることがありません。満員の客席は誰一人私を省みることがないので非常な孤独感に襲われるのですが、普段仕事で大勢の人と接しなければならない身としてはこの孤独感がたまらなく貴重なのです。

“飲まない・打たない・買わない”私は舞台での観劇がほとんど唯一の趣味(家内からはお前は唯一が多過ぎると言われております。)ですが、お芝居の素晴らしさを何とか子供達にもわかってもらいたいと長年思っていました。

平成15年6月の芸術座公演で久しぶりに、以前から交流のある泉ピン子さん主演の舞台 ”ちょっといいかな女達”を観たので、ピン子さんに舞台の感想などを書いた手紙を送りましたが、その舞台に出演していた子役の石川楓ちゃんの演技が素晴らしかったのでその文中にほんの二行ほどその事を書きました。特に泣く場面では大人の役者さんは誰も本物の涙を流さなかったのに楓ちゃんだけが大粒の涙をポタポタポタと流してみせたのです。ところがその手紙をわざわざピン子さんが楓ちゃん本人に見せてくれたのです。私にとって全く予想外でしたが、楓ちゃんから我が家に「泉さんへのお手紙に私の事を書いていただいてほんとにほんとに嬉しかったです」という内容の葉書が来ました。(奇しくも私の娘と同じ小学6年生でした。)喜んだ娘がすぐ楓ちゃんに返事を書いたら、すぐまた手紙が娘宛に来ました。

そこで売れっ子子役の石川楓ちゃんが出演する9月の芸術座公演”簪マチコ”のチケットを苦心の末手に入れ(又1列目中央の席2枚です)、しかも舞台終演後に楓ちゃんと楽屋でお会いできることになりました。娘の狂喜乱舞・欣喜雀躍如何ばかり!日本てなんていい国なんでしょうか。

待ちに待った観劇当日、二人で”簪マチコ”というお芝居を充分楽しみました。そして終演後私たちの席まで楓ちゃんのお母さんが迎えに来てくれ、楽屋前でしばし歓談することが出来ました。高価なバッグのお土産まで頂戴し夢のようなひと時でした。

私が”舞台上で楓ちゃんが本物の涙をポタポタポタと流すのに感心しました。よく自在に涙を流せるものですね。”と言ったら、お母さんが”私たち何度も楓に殺されてるんです”
と答えたのです。つまり楓ちゃんは涙を流すためにご両親が亡くなった事を想像して泣くということなのだそうです。二度感心しました。これも努力の一つですね。

誰でも凄まじい努力で二流の芸人にはなれる。
さらに一流になるためには才能が必要である。
スターになるためには華がなければならない。

とよく言われます。石川楓ちゃんに華があるかどうかはわかりませんが、才能はあるような気がします。あとは本人の努力ですね。楓ちゃんのお母さんが仰るにはこれから学業に専念するために舞台は当分お休みなんだそうですが、是非復帰して活躍してもらいたいものです。

平成16年2月も東京の芸術座で娘と二人でお芝居を見ました(二人で見たのはこれで3度目です)。浜木綿子さん主演の「極楽町1丁目」という喜劇です。

去る2月21日(土)朝早く私一人で東京に出て新橋演舞場の昼の部を見て、歌舞伎座の夜の部を見て翌22日(日)娘がはるばる一人で石巻市からローカル線と新幹線を乗り継いで東京駅にやって来たのをプラットホームで出迎え一緒に芸術座にタクシーで行ったのです。ところが普段は丈夫の娘がどういうわけか風邪をひいたのか頭が痛いと言い出したのです。

せっかくの観劇ですから大慌てで芸術座の受付の方に無理を言って11時半の開演前に風邪薬を手配して飲ませましたが、12時少し前にとうとう娘は吐き気と頭痛を我慢しきれなくなって他の観客や演技中の舞台俳優の方々には大変申し訳ないことでしたが開演中に最前列中央の席を立ったのです。
娘はトイレで吐いて青い顔で廊下の椅子の上で具合悪そうにしています。せっかく忙しい中、時間をやり繰りしてやっとの思いで(自宅から芸術座まで往復8時間かかるんです。)観劇にまでこぎつけたのに何たることかと絶望的な気分でした。

舞台を見ている観客からは爆笑が何度も廊下まで聞こえてきます。私に気を使ったか娘は私に「お父さん一人で見てくれば」と言ってくれますがそうはいきません。指定席が残っているかどうかわかりませんが、お昼過ぎの新幹線でとんぼ返りで石巻に帰らねばならないなと本気で思い始めていたときです。今まで舞台で演技していた役者さん達がぞろぞろと廊下を歩いてきたのです。その中に仲本工事さんもおいでになるとすぐ気付きました。ウワっまずい!と思い顔を伏せた瞬間信じられない言葉が仲本さんの口から出たのです。

「どうしたの具合悪いの?薬と色紙持ってきてやるから頑張って!」と娘の額に手をおしあてて言ってくれたのです。
一瞬何がなんだか訳がわかりませんでしたが、少し後本当に色紙と薬2錠そしてコップのお水を持ってきてくれたのです。私はコップのお水に優しい心遣いを感じて感激しました。
薬が効いたのか心のこもった色紙で娘の免疫力が回復したのかはわかりませんが、それから20分ほどでだいぶよくなった娘と一旦上演が中断し場内が暗くなったところを見計らって二人で席に戻りました。おかげさまで舞台中盤から終演まで大変楽しく見ることが出来ました。仲本工事さんのおかげです。いまだに信じられない思いで一杯です。

終演直前に手拭いを観客に放るサービスも娘も私も一本づつ頂戴できました。特に私は主演の浜木綿子さんからハイよとばかりに直接手渡していただきました。長くお芝居を見ている(私はもう600数十本のお芝居を観ました。)とこんな素晴らしいことにも出会うことができるのかと感激しました。舞台上の仲本工事さんを思わず何度も拝みました。

私は昭和40年代後半から50年代に掛けて”8時だよ!全員集合”はほとんど欠かさず見ていた世代です。ドリフタ-ズ6人のメンバーの中で仲本工事さんが一番優しい目をしていらっしゃるとは感じていましたが本当にそうでした。残念ながら娘は仲本工事さんを知りませんでした。もちろんドリフタ-ズの活躍も人気も知りません。それでもつい今しがたまで目の前の舞台で演技していた俳優さんというのは当然理解します。

その後芸術座向かいの帝国ホテルにて親娘二人で遅い昼食を取りながらドリフタ-ズのメンバーのキャラクターや活躍を娘に話して聞かせ、当初の予定通り夕方の新幹線で帰りました。ホントニ幸せな一日でした。(去る3月20日ドリフタ-ズのリーダーだったいかりや長介さんが突然お亡くなりになりその追悼番組が盛んに流されました。娘は大変興味を持ってその追悼番組を見ていたようでした。ご冥福をお祈りいたします。)

私の家内から「生まれ変わったらあなたの女房はもう嫌だが娘にはなりたい」と言われております。娘には芸術座最前列中央の席でお芝居を見た上に役者さんに親切にしていただき、その帰りに帝国ホテルで食事をしたという”得がたい時間の贅沢”を何十年後かに噛みしめてもらいたいと思います。

さて大変気分よく石巻に帰ってから当地の地酒に御礼の手紙を添えて芸術座気付けで仲本工事さん宛にお送りしました。ところがその翌日私宛に電話がかかってきたのです。
非常に押し殺したような口調で”ナカモトですが、何ですかこれは!”とまるで難癖をつけるような恐ろしい調子です。すぐ仲本工事さんだとは気付きましたが、その口調にオロオロしながら”一昨日体調を崩した娘に親切にも仲本さんから薬とサインの色紙を頂戴した扇谷です。おかげさまで体調も回復して最後まで観劇することが出来ましたのでその御礼にと思いまして。手紙も添えたと思いますが”と答えたら仲本さんの口調が突然変わり いつもテレビで見る調子で” あーそうでしたか。舞台から見ていたら最後の方はお嬢ちゃんけらけらと笑っていたから直ったんだなと思っていました”と答えてくれたのです。
宮城県石巻市という所に住む見知らぬ者から送られた品をきっと胡散臭いものと感じたのでしょうか。下手に開けてみて何か不都合があるといけないと思い探りの電話を入れてみたのでしょう。
それにしても最初の”ナカモトですが、何ですかこれは!”という押し殺したような恐ろしい口調とその直後の軽い口調のコントラストが、やはりさすが役者さんだと思いました。

小泉信吉博士(東大総長もされましたか)の娘さんが書いたエッセイを読んだことがありますが、「女は連れ添う者によって180度違う人生になる。せめて娘として親の手元にある間は色々な経験をさせてやりたい。」と言われ、戦前当時としては大変珍しい海外旅行など得がたい経験を沢山させてもらって後で親に感謝したと言うようなことが書いてあったように思います。

私の小学6年生の娘も親の手元にあるのは後せいぜい10年ぐらいでしょうか。この間に 是非小泉博士の娘さんのように(到底及ばないまでも)得がたい経験を沢山させてやりたいと思っています。(贅沢三昧と言う意味では全くありません。)モノより経験です。

(会計事務所向けの雑誌「実務経営ニュース(平成16年)5月号」掲載したものです)

(会計事務所向けの雑誌「実務経営ニュース(平成16年)5月号」掲載したものです)