平成29年の観劇始めは歌舞伎座、松本幸四郎・坂東玉三郎主演の「井伊大老」でした。新年のNHK大河ドラマ「直虎」の末裔である井伊直弼(いいなおすけ)のお話です。井伊大老は幕末に吉田松陰をはじめとする尊王攘夷派の志士達を強権をもって弾圧処刑した(安政の大獄)ことで多くの人の恨みを買い、安政7年(1860年)3月3日桃の節句に雪が降る中 桜田門外で水戸浪士によって暗殺された(明治維新のわずか8年前です。)ことで有名ですが、私は長い間この男のせいで明治維新は1年遅れたと考えていました。教科書などに掲載されている井伊直弼の肖像画も割と憎々しげに描かれているように感じられ、私にとっては悪玉の印象でした。(しかし今は井伊大老を評価しています。)

芝居は、井伊直弼が心ならずも徳川幕府の大老となり強大な武力を背景にしたアメリカとの通商条約を(勅許も得ずに)締結せざるを得なかったことそして尊攘派の志士たちを弾圧したことに後悔の念を持ちながら、側室お静の方との間に設けた一人娘を亡くした悲しみや故郷彦根の質素な屋敷埋木舎(うもれぎや)での楽しい日々のことを、そのわずか数時間後に暗殺されることを知る由もなく側室と語り合うというものです。障子の外は桃の節句ながらもちろん雪です。松本幸四郎扮する井伊大老が坂東玉三郎扮するお静の方に対して言う「何度生まれ変わっても夫婦になろうぞ」の言葉と共に「来世は間違っても大老なぞにはなるまい」の言葉が胸に突き刺さります。
それにしても五代目坂東玉三郎の美しいこと!息をのむばかりです。第13代彦根藩主でもある井伊直弼の側室としての気品も感じられ目の前の玉三郎に気が遠くなるようでした。
このお芝居は“安政の大獄”と“埋木舎”そして“桜田門外の変”を知っているとその素晴らしさが十分伝わってくる北條秀司の手になる秀作なのですが、言葉を換えればそれらを知らないとつまらない話としか感じられないような気がします。

1時間半ほどの「井伊大老」が終わった後、私の後ろの席でかなり歌舞伎通と思われる年配の方が玉三郎について連れの奥さんらしき方に解説していました。面白そうだったので耳をそばだてて聞いておりましたが、昭和25年生まれの当代玉三郎は梨園の出ではなく普通の料亭の子として生まれ、患った小児麻痺の後遺症を克服しようと日本舞踊を習った縁で昭和39年に第14代森田勘彌(もりたかんや→昭和50年没)の芸養子となったのだそうです。(これは知っておりました。)
興味深かったのはその後です。「玉三郎はね、去年は歌舞伎座12か月公演のうち4ヶ月か5ヵ月も出演していたがこれは一昔前というより中村歌右衛門(平成13年没)が生きていたころには考えられなかったことだった。1ヶ月か2ヶ月しか歌舞伎座の舞台に立てないことが多かった。歌舞伎界のドンになっていた歌右衛門は玉三郎を目の敵にしていたからね。自分自身を歌舞伎界最高峰の女形と信じていた歌右衛門は、寄る年波にその美貌が衰えていくのを十分感じていたんだろう。それに対して玉三郎の美しさと人気と芸に強く脅威を感じて徹底的に歌舞伎座出演を妨害したんだ。そのため歌舞伎座の舞台に出られない玉三郎は活躍の場を外に求めざるを得ず、帝劇や国立劇場などで歌舞伎以外の役を次々に引き受けそれが芸域の広さにつながったからかえってよかったんじゃないかな。
玉三郎を嫌った理由がもう一つある。それは養父の森田勘彌なんだ。若かりし頃の歌右衛門が勘彌に恋をして言い寄ったがすでに水谷八重子(初代)といい中になっていた勘彌が歌右衛門を振ったんだ。女形とはいえ男の歌右衛門が男の勘彌に言い寄るというのはどういう状況かは自分たちの理解を超えているけど要するにそういうことなんだそうだ。怒りと嫉妬に狂った歌右衛門がその後は徹底的に勘彌を敵視して歌舞伎座の舞台にあげさせないように仕向けたので歌舞伎役者としての勘彌の晩年は寂しいものだった。“可愛さ余って憎さ百倍”というところかね。その伝で行くと玉三郎の方は“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”とんだとばっちりといったところだね」
このように目も眩むような解説(どこまで真実なのかはわかりませんが)をわかりやすい表現で語ってくれたこの紳士はどなただったかはわかりませんが、こういった歌舞伎通の方の解説を受けながら歌舞伎を間近く見ることのできる連れのご婦人の何と幸せなことよ!と(ご本人が気づいているかどうかはともかく)羨ましくなりながら自分の席を後にしたのでした。

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