( 勧進帳 その二 )

当事務所のお客さんの会社にまだ若年ながら歴史に大変詳しい専務のKさんという方がおいでになります。先日お会いした際にこの歌舞伎の“勧進帳”が話題に上がりました。Kさんは「伝承の部類なので真実かどうかは定かではありませんが」と断った上で、次のような話を紹介してくれました。まず関守富樫左衛門は先年義経が滅ぼした木曽義仲の家来であったのが源頼朝に召し抱えられ安宅の関の関守となったのだそうです。そして富樫の恩情により辛くも虎口を逃れた義経主従は、木曽義仲の愛妾だった巴御前の待つ家に招かれ、先ほど弁慶が主人義経の命を助けるためとはいえ金剛杖で打擲(ちょうちゃく)した傷を巴御前が治療・介抱します。その際に義経は自身の愛妾静御前が京都から鎌倉に移送されることになったのでそれに付き従って面倒を見てほしいと頼み巴御前はこれを了承するという話があったのだそうです。

いかに弁慶の忠義心に心打たれたとはいえ富樫左衛門は自分の主人木曽義仲を滅ぼした敵方の大将義経の命を助けてやろうと思うものだろうか?とか、同じく木曽義仲の愛妾に向かって自身の愛妾の面倒を見てほしいと頼み込むなど随分とムシのいい話ではないかなどと言えなくもありませんが、それにしてもシナリオとしては出来すぎの感もあるほどのこのような説がなぜにこれまで数多の義経関連のお芝居の題材にならなかったのか不思議ではあります。

歌舞伎の“勧進帳”に関連したお芝居は“御摂(ごひいき)勧進帳”や“安宅の松”などいくつかの演目がありますが、後日談としてのお芝居は昭和35年初演の“富樫”のみで(おそらく)巴御前との話を絡ませたものは聞いたことがなく、Kさんのこの話はとても興味深く耳に入りました。義経主従はその後奥州平泉の藤原秀衡の保護を受けるものの秀衡の死後その子泰衡によって討たれる運命が待っているのはご承知の通りですが、“義経北行伝説”と言って義経が奥州平泉の衣川では死なずに北に逃れたという話があるのも有名です。さらにその後北海道から大陸に渡りジンギスカンになったとの説すらあり荒唐無稽な話ではありますがロマンを掻き立てるには十分です。

この有名な“義経=ジンギスカン説”に限らずいわゆる“本当は生きていた!説”は、平家滅亡と共に壇ノ浦で亡くなったのは実は身代わりだったとする安徳天皇、山崎の戦で秀吉に破れたものの生き延びてやがて天海僧正になったとする明智光秀、秀吉に滅ぼされたものの熊野の地で生き延びたとする紀州雑賀党主で鉄砲の名手だった雑賀孫市、大坂夏の陣で討ち死にしたのは影武者だったとする真田幸村、大坂落城時その真田幸村とともに”花の様なる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ”なるわらべ唄が当時流行った豊臣秀頼、上野戦争後大陸に渡り馬賊になったとする元新選組十番隊組長原田左之助、西南戦争後生き延びやはりロシアに渡りニコライ2世来日時に同行するのではとの噂があった西郷隆盛など枚挙に暇がありません。そしてそのいずれもが、体制に毅然として立ち向かわんとするも夢半ばで絶たれた命を”非業の死”と位置づけることで大衆にそのヒーロー達の“生存説”を抱かせ、彼らの判官びいきの心情とも相俟ってその需要に応える形で芝居その他のビジネスに利用し得る余地があったためであろうことは容易に推測されます。

お芝居は真実を追求する学術的なものではなくあくまで娯楽ですから作者が様々想像力を巡らしお客さんに楽しんでもらうものです。歌舞伎の定義の一つに“ありそうもないことを、さもあるように演じるもの”というのがありますが、上記のKさんから教えて頂いた伝承の話も容易に観客を楽しませるようなお芝居になりそうです。“富樫”と共に勧進帳の後日談として歌舞伎で取り入れてみたらどうでしょうかね。