平成21年4月の歌舞伎座は伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)という伊達騒動を題材にした人気狂言でした。人気役者の片岡仁左衛門が主演することと、来年春に歌舞伎座が取り壊しになる為に“さよなら公演”の効果もあってか客席は当然のように満杯でした。

私も運よく最前列の席に座ることができたのですが、私の隣に座ったお客さんの口元がお芝居の最中常にもごもごと動いているのです。最初“ガムでも噛みながら舞台を見ているのかな不謹慎な奴め!”と思いましたが、そうではありません。なんと舞台上の役者さんの台詞を声は出さずに全部口の中で唱えている!!のです。完璧に暗記しているのでしょう、ほとんど最初から最後まで台詞を唱え続けていました。時折頭を小さく動かして舞台上の役者と一緒に見得を切るしぐさも交えます。

私も名舞台の名台詞のいくつかは暗記して何かの折余興に披露することはありますが、全ての台詞などは到底暗記できません。この隣のお客さんは歌舞伎に関して余程のキャリアと造詣の深い人なのだと感心しました。

以前目の不自由な人が盲導犬だけを頼りに一人で観劇に来たのを目撃したことがありましたが、目が見えなくったって舞台のシーンが目の奥に焼きついてさえいれば役者さんの台詞だけでも舞台を感じることができ、観劇ならぬ“感劇”が可能なのだと感動したことがありました。

そうだとすると今度は耳が聞こえなくったって、台詞や舞台の効果音が頭に入ってさえいればあまり不自由なく観劇できるはずだと思います。自分自身目も耳も弱ってきたと感じる今日この頃、このお二人の芝居に対する姿勢は私自身に対して歌舞伎の理解度をもっともっとあげれば、将来的にたとえ目や耳が不自由になっても観劇で変わらぬ感動を舞台からもらうことが出来るのだということを教えてもらえたような気がしました。

歌舞伎のBGMはほとんどが三味線や長唄など日本の伝統音楽で、しかも人間国宝や国宝級の人たちによるライブです。三味線という楽器は右手で撥を持ってひきます(そういえば左利きの三味線奏者にはまだお目にかかったことがありません。)が、左手は人差指、中指、薬指を使いつぼを押さえるだけでなく、弾く、擦る、打つ、止めるなどきわめて複雑な動きを一瞬の間に行っているのです。歌舞伎の舞台の上の山台と呼ばれる三味線奏者が座る台の上で、複数の奏者が一糸乱れない右手と左手の複雑で素早い動きは役者の演技とは又違った感動を味わうことができます。

以前これも私の隣に座ったお客さんでしたが、三味線奏者の左手に合わせて自分も指を動かしているのです。当然に舞台上の奏者と全く同じ指の動きです。このときは舞踊劇でしたがこのお客さんは舞台上の歌舞伎役者を見ることなく最初から最後まで三味線方の手の動きを注視していた如くでした。