「国家安康 君臣豊楽」という文字を見て、歴史好きな方ならすぐ徳川家康が豊臣家を滅ぼすための口実に使ったものと気が付かれるはずです。日本史上最大の難癖とされるこの事件は、慶長19年(1614年)豊臣秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の碑文の中に刻まれていた文章の一部に関して、“国”と“安”の文字で家康を切断していて徳川家を呪詛するもの、そして豊臣家の繁栄を祈るものとのして徳川家が豊臣家を論難し、さらなる無理難題を突き付けてそのような意図の全くなかった豊臣方の必死の弁明も空しくついに大阪の陣によって豊臣家は滅亡に至ります。家康は豊臣家を武力によって滅ぼしたかったので口実は何でもよかったのです。そこにはどんな弁明も受け入れられるはずがないのです。

私も京都方広寺に行って実際にこの鐘を見たことがあるのですが、漢字だらけの長い碑文(南禅寺高僧文英清韓がこの文章を書いた。)に白いチョークのようなもので目印をつけているから判読できるもののあの小さな大量の漢字のなかからこのたった八文字を見つけ出して非難の口実にするなど驚異的だ(家康のブレーン金地院崇伝とされる。)と思った記憶があります。 

さて平成最後の歌舞伎座(平成314月)昼の部は「平成代名残絵巻」でした。

“おさまるみよなごりのえまき”と読むのだそうですが解説の文章には「今上天皇陛下御退位及び皇太子殿下ご即位に当たり平成の御代が締めくくられ新たな元号を迎える節目を記念する狂言として上演します。」と記載されていて源氏と平家の世界を舞台にして新たな時代への思いを馳せるめでたい祝賀の物語となっています。

第一場は平家全盛を迎えようという時節京都六波羅の平清盛の館で娘徳子が高倉天皇への入内が決まり一族が平家の一層の繁栄を祝い華やかな宴の様子が繰り広げられます。

第二場は桜満開の清水寺が舞台で(平清盛によって殺された源義朝の愛妾)常盤御前が、後の源義経になる息子と再会し源氏の旗を渡して源氏再興の門出を祝います。

第三場は源平の対面となります。

満開の桜を背景に三場すべてが華やかな舞台となり解説に締めくくられたように「平成の御代を納め、時代の節目を記念する一幕をお楽しみ」して観客席は祝賀ムード一色に包まれたのでした。

歌舞伎座も多くの観客も素直に“行く平成を惜しみ来る令和の時代に希望を新たにする”という気持ちを舞台と重ね合わせたものと思います。

しかしその後の歴史の展開はどうだったのでしょうか。平清盛の娘徳子が高倉天皇に輿入れしたのは承安元年(1171年)でその後平家が壇之浦で滅亡したのが寿永4年(1185年)ですから、第一場での平家一門の宴が催されてからわずか14年足らずで滅亡しているのです。そして平家を滅ぼした源義経も文治5年(1189年)に奥州平泉で非業の死を遂げていますから、第一場第二場第三場の舞台の華やかさとは裏腹にまもなくみんな滅亡の坂を転げ落ちることになるのです。

往年の名ナレーター芥川隆行(平成2年没)さん調に、「かくして全盛を迎えた平家一門であったが、それはやがて平家がたどる滅びの道への悲壮な序曲であったとはこのとき何人といえども知りえぬことであった。」

もし私が日本国の独裁者で絶対権力者でかつ歌舞伎を何とか潰してやりたいと考えていたなら、次のような難癖をつけますね。

「今上天皇と皇太子殿下を寿ぐという触れ込みながら舞台は平家と義経のどちらもそう時を経ずして悲惨な結末を迎えているではないか!これは平成も令和もそのようになればいいという呪詛の歌舞伎である。そのような不敬な芝居を興行にかけるとは何事であるか」と。

そういえば江戸時代末期に改元の際に“令徳”という元号が候補に挙がったことがあるのだそうですが、幕府から「川家に命する」というように読めると言われて撤回したことがあったのだとか。その当時の元号選定者や幕府の真意はわかりませんが、とにかく難癖・いちゃもんの類というものはそう難しくなくつけられるもののようです。

先日来年に迫った東京オリンピックの担当大臣が相次ぐ失言によって辞任しましたが、野党からすると易々といちゃもんをつけることのできる格好のターゲットだったようです。鬼の首でも取ったようにはしゃぐ野党の姿は私には大事な政治の本質からかけ離れている空騒ぎのようにも映りましたが、発言や挙措動作にはどこからも難癖をつけられないように気を付けることも処世術の一つですね。

オッと「私も立場上注意せねば!」とこの文章を書いていて気が付きました。アハハ!遅い!!