令和18月の歌舞伎座第三部公演は坂東玉三郎演出・主演の“雪之丞変化(ゆきのじょうへんげ)”でした。

歌舞伎座公演は通常昼の部と夜の部の二部制(演目は別)ですが、毎年8月だけは夏芝居と銘打って時間を短くして三部公演(演目はもちろん別)としています。昼と夜の二部制の場合丸一日一等席で観劇すると料金が18000円×236000円となりますが、三部制の場合は15000円×345000円にもなってしまい公演時間があんまり変わらないはずなのに歌舞伎座にとって一日当たり一人9000円の増収となりますね。まあそれでも1900人収容の歌舞伎座は満杯のお客さんでしたからまだまだチケット料金を値上げしても大丈夫、多くの観客の支持は得られそうです。因みに第三部“雪之丞変化”はおよそ2時間ほどの上演時間でしたから、1時間あたり7500円、1分あたりに換算すると125円にもなります。しつこいようですが1秒あたり2円余りですから、ウン安くはないぞ! 

昭和9年朝日新聞に連載された三上於菟吉(みかみおときち)原作のこの小説は連載当初から人気を博し映画や舞台そして戦後はテレビドラマにも数多く取り上げられましたが、近年なぜか歌舞伎ではあまり演じられることがなく私は今回が初めての観劇でした。

粗筋は、無実の罪を着せられて非業の最期を遂げた両親の仇討ちを背負ったその息子雪太郎(後の雪之丞)が歌舞伎役者となり、女形として生きていく上での苦悩も抱えながら様々な人達の助けを受けて遂に本懐を遂げるというものです。

これまでこの“雪之丞変化”は映画やテレビで長谷川一夫、美空ひばり、大川橋蔵、美輪明宏、滝沢秀明など錚々たる面々が主役を演じていますが、私は今回の玉三郎の芝居が(素人受けも玄人受けもする演出とも相俟って)ベストではないかと思っています。舞台上の大道具や小道具が少ないシンプルな設え(しつらえ)ながら、背景の複数のスクリーンに映し出される映像と音を効果的に使いテンポよくまた分かりやすく話が進みます。舞台上の玉三郎扮する雪之丞がスクリーン上の市川中車扮する脇田一松斎と会話しているうちにホンモノの市川中車が扮装を変えて中村菊之丞として舞台に出てくるという具合です。スクリーンの映像を上手に使って歌舞伎お得意の早変わりを楽にこなしているのです。斬新な演出です。また過去に玉三郎が歌舞伎座で演じた白拍子花子や滝夜叉姫、乳人正岡、蜘蛛の精、鷺の精などが次々に映し出され、それらの芝居を知らなくても(多くの観客は当然に知っているはずですが)興味深く(今よりはちょっと若い玉三郎に)見入ってしまいます。

さらに“玄人受け”の意味は雪之丞の兄貴分に当たる七之助扮する星三郎と浴衣姿で芝居を熱く語り合ううちに、実際のお芝居をそのまま掛け合いのように演じてしまうのです。籠釣塀花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)や鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)そして助六(すけろく)などかつて玉三郎と七之助のお父さんの18代目勘三郎が熱演したお芝居の人気場面を浴衣のまま演じるのです。先年亡くなった18代目を偲びジーンとなりながらも得した気分でした。

“得した気分”といえば舞台上の玉三郎が明白にセリフを間違えたのを、すぐ目の前で聞いたことです。お芝居の中で歌舞伎の師匠である中車扮する中村菊之丞に勧められ剣の達人(これも中車扮する)脇田一松斎のもとを訪ねた雪之丞が自分の境遇を打ち明け仇討ちのために剣術の手ほどきを受けることになったシーンです。雪之丞が「師匠雪之丞の命により・・・」と脇田一松斎に語ったのです。雪之丞は自分ですからここは当然「師匠菊之丞の命により・・・」と言わねばならなかったのです。玉三郎のそのセリフを聞いた時一瞬混乱しましたが、すぐ「アラッ、玉三郎間違ったんだ!」と気が付きました。しかし舞台上の玉三郎は眉毛一つ動かさずその後のセリフを淡々と吐き続けます。きっと心の中では「しまった!名前間違っちゃった、お客さん気付いたかな。」とちょっと慌てたに違いありません。ごくたまに役者がセリフを噛んだりとちったりすることはありますが、主演俳優がそのような間違いをすることはまずありません。稀代の名優5代目坂東玉三郎の明白なセリフの間違いを聞くことができたのは全くラッキーとしか言いようがありません。

昭和61年第37回紅白歌合戦で白組司会を務めた永遠の若大将加山雄三が当時人気のアイドルグループ少年隊を紹介するときに「紅白初出場、少年隊の“仮面ライダー”です。」とノリノリで間違えたことがあり私の耳にも残っています。しかし本人は間違えたことに気付いておらず後でスタッフに「歌の題名は“仮面ライダー”ではなく“仮面舞踏会”ですよ。」と指摘されて「ああ、そうか。」と悠然と答えたということです。

またその二年前の第35回紅白では司会のNHK生方恵一アナウンサーが(美空ひばりのファンだったのかどうか)、トリを勤めた都はるみを“ミソラ”と紹介してしまい(これも私の耳に鮮明に残っています。)その後左遷されたと聞いています。

大御所や人気者などが、取り直しのきかない舞台やテレビの生中継でウケ狙いではなく大真面目でこのような“ズッコケ”を演じてそれを目の当たりにすることができるのは極めてラッキーなことだと思います。これまで私の数多の観劇の中でこのようなハプニングは数えるほどしかありませんが、玉三郎のそれを私の目の前わずか3mのところで目にし耳にすることができたことでホントにハッピーな気分で歌舞伎座を後にしたのでした。

ウン、観劇料金1分あたり125円は高くない!