( “紙屋町さくらホテル” その一 )
演劇は時の政権にとって厄介な存在であり続けたようで、江戸時代徳川幕府は歌舞伎をはじめとしたお芝居が政権批判につながらないよう多くの制限を課しました。演劇の持つ一般大衆への様々な分野における煽動や啓蒙の威力を恐れたのです。
アメリカ・イギリスとの戦争を始めた昭和16年の6月、“戦力・生産力増強のため健全なる娯楽を提供する”という名のもとに「移動演劇連盟」が設立され、歌舞伎をはじめとした演劇界はこの連盟にすべて呑み込まれていきます。演劇の国家統制、いわば国策宣伝隊でもあった移動演劇連盟ですが、娯楽の少なかった地方の人々はこの移動演劇公演を楽しみに待っていたといいます。公演の諸費用は連盟や各地の主催者が持つ仕組みで、弁当もついたので加盟劇団員の生活は安定したと言われています。
劇作家井上ひさしさんは広島と長崎と沖縄に強い思い入れをお持ちで、それぞれを舞台にした“父と暮らせば”・“母と暮らせば”・“木の上の軍隊”という名作を発表し、井上さん創立の劇団こまつ座によって上演が繰り返されています。そして広島を舞台にしてもう一本“神屋町さくらホテル”という秀作も残しています。
このお芝居は昭和20年の終戦直前、広島市紙屋町にある「紙屋町さくらホテル」を宿舎にした移動演劇隊のさくら隊の隊員たち(俳優)が敗戦間近の日本で精いっぱい生きようとし演劇に情熱を傾けるその一方で、滅亡に瀕している御国のために何とか任務を果たそうとし救国の一念に燃える人たちが繰り広げる人間模様を笑いと涙とで綴りつつそれらの人々の努力がたった一発の原子爆弾により一瞬にしてこの世から消えてしまうという不条理を描いています。
私は平成18年7月(紀伊国屋ホール)と28年8月(紀伊国屋サザンシアター)にこの舞台を二度観ていますが、粗筋を語るより登場人物とそのキャラクターを書きますので自由にこのお芝居の展開を想像してみてください。時は敗戦を3か月後に控えた昭和20年5月15日(火)午後6時から17日(木)午後9時までの二日間あまり、場所は広島市紙屋町にある「紙屋町さくらホテル」のロビーです。
因みに原爆の場面はありません。観客がそれぞれにさくら隊劇団員の悲惨な最期を想像するだけです。
丸山定夫
築地小劇場出身で新劇の団十郎とまで言われた人気・実力も兼ね備えた美男俳優で、移動演劇隊の劇団さくら隊の隊長でもあり劇団員の信頼も厚い。物資欠乏、空襲、軍の横暴など幾多の困難を乗り越え間もなく広島宝塚劇場で公演されるお芝居“無法松の一生”の準備に必死に取り組む。
園井恵子
宝塚歌劇団出身で丸山定夫に師事。映画“無法松の一生”で丸山定夫と共演し国民的スターになる。さくら隊の隊員となり丸山定夫を支え宿舎の紙屋町さくらホテルで他の隊員たちと稽古に励む。特高刑事戸倉の嫌がらせにも臆せず上手にあしらう度量も持ち合わせる。
神宮淳子
日系二世で3年前に日米交換船でアメリカから日本に帰国し、紙屋町さくらホテルの経営をしている。敵国アメリカで長く暮らしていた日系二世ということで肩身の狭い思いをしながらもさくら隊のお世話を甲斐甲斐しく行い芝居にも出演する。
戸倉八郎
(思想犯を取り締まる)特別高等警察の刑事で、神宮淳子をアメリカのスパイとして監視する任務を負う。演劇もあまり理解せずさくら隊の隊員に対しても辛く当たる。無知な者が振り回す権力が時として滑稽に映り観客席の笑いを誘うが、丸山達との交流を通じ芝居の魅力に次第にとりつかれていく。
長谷川清
海軍大将で昭和天皇のご信任厚く「今の日本には陸軍の言うようにアメリカとの本土決戦能力が残っているか。」ということを探るように命じられ、越中富山の薬売りに身をやつして全国を視察しているうちに広島で丸山定夫に誘われさくら隊の隊員になる。
針生武夫
長谷川清海軍大将が、徹底抗戦を叫ぶ陸軍の不利になるような報告を昭和天皇にすることを恐れ、現役を離れた傷痍軍人と身分を偽ってさくら隊の隊員になり長谷川を常に監視している陸軍中佐。場合によっては長谷川大将を刺し殺す許可も陸軍から得ている生粋の軍人。
大島輝彦
明治大学の助教授。言語学を教えていたが戦争遂行には全く役に立たないとみなされ講義をすることができなくなり、全国の方言調査を思い立って広島に滞在するうちに丸山定夫に誘われさくら隊の隊員となって演劇を手伝うことになる。
針生と鋭く対立し専門の言語学の知識を以って針生の偽りの身分の化けの皮を鮮やかに剥がし、さらに(脱走まで勧めて命を救おうとした)優秀な教え子が特攻隊員として死なねばならなかった(或いは国家の名のもとに殺されねばならなかった)無念を吐露するや、丸山や園井などのさくら隊俳優たちは無論のこと長谷川海軍大将や針生陸軍中佐、戸倉特高刑事ですらも反論できずあまりの衝撃にうなだれる場面は、この戯曲における息を飲むハイライトシーンとなる。