令和111月の歌舞伎座昼の部は歌舞伎座公演では18年ぶりとなる「研辰の討たれ(とぎたつのうたれ)」でした。このお芝居は明治維新(1868年)も近い文政10年(1827年)香川の讃岐の国で仇が町人、討手が武士という珍しいかたき討ちがありそれを素材にして大正1412月木村錦花原作で二代目猿之助主演により公演されて人気を博したものですが、仇を“討たれる側”の視点からお芝居が構成されているので“研辰の討たれ”という少し奇妙な題名になっているのです。かたき討ちの話は映画や舞台・小説などで数多く取り上げられていますが、通常はかたきの方がいかにも強そうで悪そうな扮装で、討手の方はというと見るからに弱そうな姉・弟の様な設定が多く様々な艱難辛苦を乗り越えてやっと本懐を遂げるストーリーになるのですが、このお芝居はかたきの方がからっきし弱くとにかく討手から逃げ回ることに必死という滑稽な展開になっています。

物語りは、近江の国粟津藩の刀の研ぎ師守山辰次が殿様の刀を研いだのとその口のうまさで侍に取り立てられるものの町人根性が抜けきらず剣術や武家の作法にも全く興味を示さないため周囲から嫌われています。しかし生来の口のうまさで奥方に取り入り同僚の告げ口をしますがそのせいで家老平井市郎右衛門からきつく叱られたのを逆恨みしてこの家老を闇討ちにしてしまいます。殺された家老の二人の息子九市郎と才次郎は守山辰次こと研辰を親の仇と探し求め遂に3年後四国善通寺大師堂境内で追いつき仇を討とうとします。仇討ちをこの目で見ようと大勢の参詣客も取り巻きます。最初は仇討ちをけしかけていた見物客でしたが、大師堂の僧良観が「助けてやってはどうか。」と声をかけしかも研辰の犬の真似までしてのなりふり構わぬ命乞いに群衆も同情し、とうとう仇討ちを諦めます。そして誰もいなくなった大師堂境内に、命拾いしたと思って呆けたよう佇む守山辰次を一瞬にして九市郎と才次郎が切り殺して幕となります。初めて観る人は意外な幕切れにちょっと呆然。

文章で粗筋を書くと陰惨な話に思いがちですが、実は仇討ちを茶化し全編笑いに包まれるという歌舞伎には珍しい爆笑コメディなのです。先代勘九郎(18代目中村勘三郎)が生前三度主役の研辰を勤めて当たり役にしましたが、特に平成138月の公演の際は野田秀樹演出で爆笑に次ぐ爆笑で素晴らしい作品に仕上がったのが思い出されます。先代勘九郎のキャラクターのおかげか、何をするにも可笑しいのです。これは先代勘九郎独特のもので他の役者には真似できませんね。今回主演を務めたのが松本幸四郎でしたが、まじめキャラの幸四郎は“可笑しみ”を先代勘九郎のように出すことできず、仇討ちを題材にした普通のコメディにしか仕上がりませんでした。この日の観客の中には18年前に先代勘九郎主演の「研辰の討たれ」を見たファンも多かったはずですが、おそらくほぼ全員同じような印象を持ったのではないかと思われます。つくづく先代勘九郎の“研辰”をこの目で見ていてよかったと思わずにはいられません。

日本三大仇討ちは、建久4年(1193年)曽我兄弟による富士の巻き狩りでの仇討ち、寛永11年(1634年)の荒木又右衛門と渡辺数馬による伊賀上野鍵屋の辻の決闘、そしてご存知元禄15年(1703年)の赤穂浪士による討ち入りです。親や主君を殺されてその仇を討ちたいと思うのは人間の本能のようなものです。それを江戸時代に忠孝の道徳教育の一環として(本音は家臣のリストラにあったかもしれませんが)法整備を行い、その手続きに従って仇討ちを行った場合には討手に罪には問われなかったと言いますからなかなか面白い仕組みです。明治6年に政府により仇討ち禁止令が出るまで行われて、様々な分野で取り上げられることの多い仇討ちものですが、実は本懐を遂げるその成功率は極めて低かったのだそうです。

そもそも人を殺めて逐電した仇がネットも何もない時代どこにいるのかを討手が突き止めることからして至難の業なのです。(藩はかたきの捜索には協力しないことになっている。)日本全国かたきを探し回るとはいうものの、実は討手にとって当てのない放浪の旅が大半で多くは志半ばにして行倒れたり諦めたりすることが多かったと言います。江戸時代の法律では最初に殺した方も殺された方も喧嘩両成敗ということで、その家はお取り潰しになっているので、殺された方の遺族である討手は自分の藩に戻っても帰るべき家はもうありません。(藩にとっては二件分の家臣の知行を取り上げたという、いわばリストラをしたのと同じことで本音は嬉しかったようです。)奇跡的に本懐を遂げた場合だけ討手は藩に戻って祝福されてお家再興、帰参が叶うのです。このような成功事例が極端に少ないからこそ見事仇討ちを果たした時にはお芝居や小説などで大きく取り上げられることになるのです。歌舞伎でも様々な脚色を加えて沢山の作品があります。ここではこれ以上書ききれないので割愛しますが、ウィキペディアなどで仇討ちのことについて仕組みや過去の実例などをちょっと調べてから仇討ちものの舞台を見るとより理解が深まりますので是非そのようにお勧めします。