( 二条城の清正 )
この作品は昭和8年に初代中村吉右衛門の加藤清正、中村もしほ(17代目中村勘三郎→当代勘九郎のお祖父さんです。)の豊臣秀頼で初演されました。すでに徳川の世になっている中で、豊臣家の行く末を案じ何としても秀吉の遺児秀頼を守ろうとする清正を描いた名作として今日まで上演が繰り返されています。賤ケ岳の七本槍の一人である清正は、朝鮮征伐の折の虎退治や熊本城築城などエピソードの多い有名な武将でお芝居や小説などで割と好意をもって描かれる場合が多いように思います。
粗筋は、関ケ原の合戦後、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は、大阪城の豊臣家を討ち滅ぼそうと機会を狙っています。表向きは徳川家と豊臣家の親睦を装いながら豊臣秀吉の遺児秀頼の器量を探り隙あらば命を狙おうと京都二条城での会見を行います。家康の計略を察知した清正は秀吉の恩顧に報いようと秀頼の供をし、用意された食事に毒を盛られていることを警戒し、徳川の家臣が秀頼に近づいて刺し殺そうとするのを未然に防ぐなど懸命に秀頼を守り通します。会見の際秀頼の家康に対する堂々たる態度を清正は頼もしく感じますが、家康は「これは容易ならん」と思うのでした。
会見終わって早々に二条城を後にした秀頼と清正は御座船に乗って淀川を下り大阪城を目指します。しかしここにも徳川の手のものが夜陰に紛れて秀頼の命を狙って近づきますが清正が短筒で追い払います。御座船の中で「ご成人なさいましたなあ。」と感慨深げに言いながら、幼少時の秀頼の思い出を語り立派に成長した今日の姿を秀吉に見せたかったと涙する清正に向かって秀頼が「長生きしてほしい」と労りの言葉をかけます。舞台の上に設えた淀川を御座船がゆっくりと移動し大阪城の姿が遠くに見えてくるという演出で幕となります。
1時間ほどの短いお芝居ですが、清正の豊臣家と秀頼を思う心根が強く伝わってくる作品です。しかし二条城での会見後熊本に帰る船の中で発病した清正はわずか3か月後に亡くなってしまいます。そして大阪の陣で豊臣家が滅亡するのはこの会見のわずか4年後の慶長20年(1615年)でしたから二条城での忠臣清正の努力はすべて水泡に帰してしまったことになります。歴史とは残酷なものです。歴史に詳しい多くの観客はそこをよく知っているので清正の、結局は報われぬ努力になおさら哀れを感じ涙することになるのです。
でも史実はどうだったのでしょうか。
確かに加藤清正は慶長16年3月の二条城の家康と秀頼の会見に同席していますが、秀頼を守る立場ではなく実は徳川家の家臣としてこの会見に臨んでいるのです。清正の次女八十姫を家康の十男頼宣に嫁がせることが決まっていた清正は(お家存続のためかどうか)この時すでに徳川方についていたのでした。したがって秀頼を自身の命を賭して守ることはなかったし、このときの家康は卑劣な暗殺という手段で秀頼をなき者にしようとは考えていなかったのではないかと思います。なまじ史実を知っていると違和感を覚えてしまうお芝居になってしまいました。
しかし家康が会見前に持っていたイメージとは裏腹に立派に成長した秀頼を見て脅威を感じ、やはり豊臣家は自分の生きているうちに始末しなければならないと思ったと言われていますが、それはありうる話かもしれません。
何年か前に琵琶湖北方に浮かぶ竹生(ちくぶ)島に行った際に秀吉が使ったという御座船“日本丸”を見たことがあります。竹生島にある宝厳院から都久夫須麻(つくぶすま)神社へと続く幅1.8m長さ30mの渡り廊下が秀吉の御座船“日本丸”の骨組みを利用して造られており通称“舟廊下”と言われ国宝に指定されていますが実際に歩くことができます。この狭い船の中に400年余り前に豊臣秀吉や淀の方が確かにいたのかと思うと感動しました。
現在の二条城は慶長8年(1603年)徳川家康によって築城されました。何年か前に二条城も訪れたことがありますが、確かにお濠や石垣はあるものの天守閣はなく(寛延3年→1750年落雷により焼失)、お城というよりは迎賓館のような印象でした。国宝に指定されている二の丸御殿で徳川15代将軍慶喜による大政奉還が行われています。因みに家康が将軍職宣下に伴う賀儀を二条城で行っており、また大坂冬の陣の際は二条城から家康が出陣しています。
ある程度の知識を持って名所旧跡を見ると感動は倍加することは疑いありませんが、お芝居だけは“イヤーそれ違うでしょ!”と思ってしまい感動が低下する場合があるように思います。やっぱりそこは戯作者の意図に素直に乗っかって、史実を忘れて目の前の芝居こそが真実なんだと思いながら見るのがいいのかもしれませんね。アハハ私には無理かも!