今年(平成24年)1月、長野県に会社買収の仕事に行った際にその合間に上田市にある戦没画学生の遺作を集めた無言館を短時間見学してきましたが、十分時間をかけてじっくり見ようと6月になって今度はプライベートに再度訪れました。
森の中にひっそりと佇む第一展示館と第二展示館に展示されている、作者の略歴と解説付きの遺作を四時間かけて見て回りましたが前回以上の感動でした。
遺作は祖母や両親兄弟姉妹そして妻や恋人をモデルにしたものが多いのですが、モデルとなった人の目がどれどれも深い悲しみと不安と絶望とが強く伝わってくる暗い目をしています。自慢のそして最愛のわが子、孫、伴侶を“お国のために”の美名の下、その輝かしいかもしれない将来を全部捨て去って死地に送り出さねばならなかった人たちの胸中がその目に表れるのです。
絵筆しか持ったことのないそして絵にしか興味のない画学生を軍隊にひっぱったからといって、足手まといにこそなれ優秀な兵隊の働きができたとは到底思えません。戦争末期、私の母親の叔父で官立大学を出て宮城県庁に勤めていた腺病質のKさんにも召集令状が来た時に、私の祖父や曾祖父が「Kまで兵隊にとるようでは日本もおしまいだ。」と嘆息したそうですが、兵隊不適格としか思えない画学生まで戦地に出さざるを得ないほど当時の日本も追いつめられていたということでしょう。
その暗い目をした肖像画の展示が多い中たった一枚だけ穏やかな家族団欒を描いたほっとさせられる絵がありました。紅茶と果物を置いたテーブルの周りでにこやかに微笑む祖母、新聞を読む父親、どこかに出かけるのか盛装した母親そして自身と兄もゆったりと描かれています。
戦前では珍しいような満ち足りた贅沢ともいえる家族の風景です。
作者は大正6年栃木県生まれの伊澤洋さんという方で略歴には昭和14年東京美術学校に入学せるもその後応召、昭和18年東部ニューギニアで戦死。享年26歳。とありました。ああこの人は割と裕福な家庭に生まれて幸せな幼少時代を過ごし好きな絵の道に進むために美校に進んだのだなと思いましたが、しかしその伊澤洋さんの略歴に続く解説にはこう書いてありました。
亡き洋さんの絵を守り続けた兄の民介氏はこう語る。「うちは貧乏な農家だったからこんな風な一家団欒のひと時など一度も味わったことがなかった。きっと洋は戦地で両親や私達との幸福な食卓風景を空想してこの絵を描いたんでしょうな。」
洋は自分を貧しい家から美校に入学させてくれた親や兄弟への感謝を一生忘れなかった。栃木の生家の庭には洋を美校に入れるために売った欅の木の切り株が今も残っている。
この絵を見た私の最初の印象と現実との落差に打ちのめされる思いでした。伊澤洋さんはこの絵を描くとき、自分は将来画業で名を為しきっと家族にこのような時間を持てるように努力精進するぞとの思いを込めて描いたのかもしれません。