平成8年2月の明治座は藤田まこと(平成22年没)主演による旅役者の栄光と没落の悲哀を描いた“人生まわり舞台”でした。
戦前から戦後の昭和30年代まで沢山の演劇集団が全国を巡業して人気を博しました。テレビのない時代にお芝居が目の前で見られるということでどの地方に行っても興行は当たることが多くお金もずいぶん稼げたようです。しかし昭和30年代中ごろからテレビが普及し始めるとお茶の間で居ながらにして良質なお芝居を無料で楽しむことができるようになると急速に人気に陰りが出て昭和40年代後半にはいわゆるドサ周りの劇団は姿を消していったように思います。“人生まわり舞台”は小津安二郎映画監督の“浮草”の舞台化作品であるため完成した作品にさらに工夫を凝らして観客の心に訴えかけることは割と容易だったかもしれませんが、私がこれまで観た藤田まことが演じた舞台の中では最高のお芝居に仕上がったような気がします。
粗筋は、昭和33年藤田まこと扮する嵐駒十郎率いる一座が山陰のある港町で十八番の“国定忠治”を公演し大入り満員となっています。この町には駒十郎の愛人の多岐川裕美扮する芳江が小料理屋を切り盛りして駒十郎との間にできた一人娘と共に帰りを待っています。しかし駒十郎は一座の女優スミ子と関係を持ち、芳江との間でバトルが展開されます。そして若手座員がテレビ局にスカウトされて一座を去っていきますが、人気絶頂の駒十郎は意に介しません。
10年後の昭和43年、駒十郎一座は相変わらず人情芝居と舞踊ショーを中心に公演しているもののテレビの普及と相まって客の入りはぱっとせず、座員たちへの給料も滞っています。役者稼業に見切りをつけ一座を去る者も出はじめ、残った座員は給料支払いを求めストライキを決行する始末。そこへ今はテレビのスターになった昔の座員が現れ、駒十郎にテレビのチョイ役に出ないかといかにもスターを鼻に掛けた態度に駒十郎は激怒します。追い打ちをかけるように過去の興行に係る未収金も貸倒れになりさらに公演していた芝居小屋からもあまりの不入りに出て行ってくれと言われてしまい駒十郎は頭を抱えます。
さらに10年後の昭和53年冬、落ちぶれ果てた駒十郎は芳江が守り続け繁盛しているつるや食堂に現れます。すっかり老け込んだ駒十郎でしたが芳江は再会を喜び一緒に暮らすことになります。しかしそのことで芳江の娘清子に持ち上がっている町一番の名士高島医院の息子との縁談が、旅役者風情の娘では釣り合いが取れないとの理由で破談となってしまいます。駒十郎は高島医院に乗り込み破談にしないでくれと懇願、駒十郎の娘を思う熱意に打たれ高島医師は二人の結婚を許します。そしてその後駒十郎は雪の降りしきる中、小さな手荷物一つを持って誰にも告げずこの町を去っていくのでした。
人気絶頂の劇団にも社会の変化によって少しずつ陰りが見え始め、それに対応することなくこれまでとあまり変わらない人情芝居をやり続けた結果とうとう観客にもそして一座の構成員にも見放されるという絵に描いたような転落の物語です。会社経営とそっくりです。“激しく変わり続けたものだけが生き残れるのだ”とよく言われますが、社会の変化に目を背け見ないふり聞かないふりをしながら10年一日の如く同じことを続けるしかない会社は同じような末路をたどることが少なくありません。
劇団の座長は演技の腕前と共に劇団を経営するマネジメント能力も求められるのです。場合によっては演技力よりもマネジメント能力に長けた人が座長に座る方がいい場合もありそうです。私の持論ですが、“社長とは人が足りない時は人を連れてくる、金のない時は金を工面してくる、仕事のない時は仕事を持ってくる”のがその主たる仕事であってそれ以外は基本的に他の役職員に任せてもいいのです。
お芝居の最後の方で芳江の娘の父親が旅役者だったということで町の名士の息子との縁談が壊れそうになった場面に違和感を覚える観客もいたようでした。しかし私はこの名士の気持ちが理解できます。
私が生まれた涌谷町の実家のすぐ近くにAさんという昔旅役者をしていたという偏屈な老人が夫婦二人で暮らしていました。昭和50年ごろの話です。まだ学生だった私はこのA老人に気に入られ、物語り好きだったこともあってその家に遊びに行きごく狭い汚い部屋に不似合いなほど大きく立派な行李にきちんと保管されていた昔舞台で使ったという道中合羽や三度笠・長ドスそして芝居のポスターなどを見せてもらい、「自分の役者名は駒井憲二だった。」と誇らしげに言いながら嬉々として語る芝居の話に聞きいったことが楽しい思い出になっています。このA老人には隣町に嫁いだ娘がいました。旅役者という父親の稼業が嫌でたまらなかったと見えてA老人が亡くなったときに「役者稼業を自分では誇りに思っていたのでしょうが、身内にとっては恥としか思えない。」というような意味のことを言っていました。おそらくあの行李に入っていた芝居の小道具は、厄介払いをするかのようにみんな廃棄してしまったのでしょう。この瞬間に役者“駒井憲二”の痕跡はこの世から消えてしまいました。
落語家の三遊亭円歌さんはその昔「落語家になる!」と家族に宣言した時父親には「勘当する。」と言われ、頼みの母親からは「アタシャお前のような息子を生んだ覚えはないよ。」とまで言われたそうです。それほどやくざな仕事とみられていたということでしょうか。
芸人や役者はその昔河原乞食とも呼ばれ堅気の人から見れば一段低い職業とみなされていた時期も長かったのです。今は全くそんなことはありませんが、昭和50年代ぐらいまではごく普通の人でもそのように感じていた人は少なくなかったようです。
“人生まわり舞台”は平成17年9月にも藤田まこと主演で同じ明治座で再演されています。平成8年と変わらぬ芝居の出来栄えでしたが、旅役者を低くみなした町の名士の感覚を観客がどこまで理解したかわかりませんでした。