( “南の島に雪が降る” その五 )
マノクワリ歌舞伎座の収容人員は250~300人ほどでした。(因みに東京東銀座にある実際の歌舞伎座の収容人員は1900人です。)夜に灯りをつけて興行を行うと敵の空襲を呼ぶことになるため、芝居は日中の“定期便”と名付けられた空襲が終わった後を見計らっての一回だけということになります。マノクワリ駐屯7千人の戦友たち全員に芝居を見てもらうとなると一か月30回の公演が必要となります。要するに演芸分隊員はほぼ年中無休ということでした。
なんの希望もない身も心もボロボロの将兵にとって月に一度のお芝居は生きることへの希望となりました。息を引き取ろうとする病人に向かって「馬鹿野郎!今度の歌舞伎座は凄く面白いっていうぞ、お前見ないで死ぬつもりか!」と怒鳴ると「ああそうですね。」と気を取り直して生延びたというような類いの話が沢山ある反面、楽しみにしていた芝居を見て部隊に帰った兵隊が「アーッ今日の芝居は面白かったなあ。」と、伸びをしたまま亡くなったこともあったといいます。ここでの芝居は単なる娯楽ではなく生きるためのカレンダーになっていたのです。
私は50年以上も前になりましょうか、この作品をテレビで見た時に不思議な題名だなと思った記憶があります。なんで暑い南の島に雪が降るんだろう?と素直に思ったのです。放映の途中まで雪降りを思わせるシーンはありませんでした。それがマノクワリ歌舞伎座で雪の場面を苦心の末表現したのを見た時まだ10代だった私は感動の呻き声をあげたのを鮮明に覚えています。
平成27年8月の三越劇場の舞台の時は、遠方からやっと見に来た兵隊が雪国東北出身者のために舞台で雪を降らしてもらえないだろうかとの願いに加東さんが応じたことになっていますが、小説“南の島に雪が降る”によれば実際はマノクワリ支隊司令官鈴木大佐に次の出し物「関の弥太ッぺ」を報告に行った際に鈴木大佐から「その芝居の中で雪を降らせられんかね。ここは一年中こんな気候だ。兵隊たちは秋や冬を欲しがっていると思うのだよ。雪を見せてやってもらいたいんだ。」との言葉に加東さんが工夫を始めるのです。この話には伏線があって加東さんがマノクワリに衛生兵として着任したばかりのまだ戦況がひどくはなっていなかった頃、病院に重態の栄養失調患者がいて危篤に陥った際にきまり文句の「何か欲しいものは?」と聞いたところかすかに首を振りながらかすれた声で「雪を見たいなあーっ」と言って、その吐き出した“なあーっ”という嘆息が最後の呼吸になったといいます。
ほんの2年前に空の神兵と呼ばれパレンバンやメナド、クーパンで勇名をはせた日本陸軍落下傘部隊でしたが、昭和19年となると乗る飛行機もなくなり落下傘が空しくマノクワリの倉庫に眠っていました。それを活用して雪に見立てようとしたのです。毛布を敷いたその上に純白のフカフカした落下傘を舞台一面に敷き詰めると本当に雪のように見えたといいます。重ねた毛布のある部分を踏むと足がくるぶし辺りまで潜り、観客席まで冷たい感触すら伝わってきたそうです。病院からは脱脂綿が寄贈され木や屋根に積もった雪に使われました。貴重な軍需物資ではありましたが“生きる希望”となったお芝居に、軍の上下をあげて演芸分隊に協力してくれたのです。加東さんの人徳も大きかったものと思います。
「関の弥太ッぺ」の大詰めの幕が開くと甲州街道に沿った吉野の宿の町はずれは一面の(落下傘の)銀世界です。木々の枝、茅葺の屋根にも(脱脂綿の)雪、降り続ける(紙で作った)雪と鉛色の空。「雪だー!」の異口同音の叫びと長い興奮に芝居は暫時止まったといいます。
何日目だったか幕が開き雪の場面になってもいつものどよめきが起きません。不思議に思って加東さん達が客席を見るとすし詰め状態300人の兵隊が皆じっと静かに泣いていました。聞けば全員が国武部隊という雪国東北出身の兵隊たちで、彼らにとって久しぶりの雪景色は声が出ないほどの感動だったのです。芝居が終わるといつものように隊の将校が挨拶にやってきました。「生きているうちにもう一度雪が見られるなんて私達には望外の喜びです。」と言ったあと「うちの隊に歩けなくなっている病人が何人かおります。芝居は結構ですから、明日の朝その者たちにもこの雪を見せてやりたいんですが。」と願うのです。次の日の朝、落下傘を敷いた舞台の上にタンカごと二人の病人が寝かされたまま運ばれてきます。前日の芝居が終わった後の片づけをしていない舞台の上で二人は手を横に伸ばして前日降らせた紙の雪をソーッと撫で、もう力の入らない指先でつまんでは放し放してはつまみをスローモーションのように繰り返しています。重度の栄養失調患者特有の表情の失われた暗く黄色い顔で。
あの将校が「明日の朝」と指定したのはもっともだったのです。数日後あるいは数時間後に息を引き取ったであろうこの東北出身の二人の兵隊は、きっと意識だけは故郷に戻って冷たくも暖かい雪と優しく懐かしい家族に囲まれた幸福な気分に包まれながらの昇天だったに違いありません。
それから間もなく終戦となり進駐してきたイギリス軍ともお芝居のお陰で終戦に伴う交渉がスムーズに進み、加東さん達は生きて再び日本の土を踏むことができました。
昭和50年7月31日結腸癌により64歳で亡くなった加東大介さんは臨終間際、マノクワリ歌舞伎座のことを思い出し幸福な気分に包まれながら昇天したに違いありません。
合掌