( “ 夫婦善哉 ” その二 )
舞台“夫婦善哉”は、とっても後味のいい作品です。柳吉が実家を勘当され出入り禁止といういわば追放されながらも惚れた女とつましくこれから暮らして行けるだろうなと予感させる終わり方だったからです。実家の化粧品問屋「維康(これやす)商店」も特段経営が思わしくないという訳でもなかったので、いわば「みーんな、まあるく収まった!」という、めでたし!めでたし!の結末でした。
このことをカイケーシさん的な目でみるとですねえ・・・・アハハいかにも偉そうですが、お許しくださいませ。
何故みんな丸く収まったのか、それは柳吉が実家を勘当され家督でありながらも化粧品問屋を継がなかったからです。断定口調で恐縮ですが、食道楽で遊びにかけては天下一品ながら優柔不断で到底経営能力があろうとは思えない柳吉が、長男だから!と無理矢理家業を継ぐとどうなるのかを考えると思うだに恐ろしい将来が予見されます。
40年という長い間会計の世界で仕事をしていますと、一つの事業をやり続けることの大変さがよくわかります。経営者をはじめとして全役職員が必死の努力を傾注してやっとの思いで会社継続が叶うのです。しかしその能力のない或いは商売に情熱を感じない又は遊びが本分で商売二の次三の次の人が、先代の息子だからという理由で経営者に収まってしまった場合は悲劇です。
随分と昔の話ですが、その地域で断トツトップの規模・業績を誇る建設会社がありました。創業者は家が貧しかったため発奮、高等小学校を卒業するや様々な仕事で辛酸をなめ続けながらも戦後になって建設会社を起こし苦労( 随分と汚い金を使い、危ない橋も渡ったようです。下請け泣かせでも有名でした。 )の末に隆々たる会社に仕上げます。社長の息子A君は父親に似ないアイドルのような顔立ちで、小さいころからピアノやバイオリンを習い田舎にふさわしくないシティボーイ( この表現もあまり使われなくなりましたか。 )でした。このA君が東京の( 裕福な家の子弟が集まることで有名な )私大を卒業して自分の父親の会社に入ることになりました。私は「5年や10年は他の建設会社に勤務してもらい苦労させた方がいいですよ。」とアドバイスしたのですが自分の苦労を息子にさせたくなかったようで、すぐ自分の会社に入れました。私はA君に「まずはセメント捏(こ)ねから初めて現場の作業員と一緒になって当分の間汗を流しなさい。」と伝えたのですが、3Kを嫌ったか事務方に籍を置きました。仕方ないので次に私は「お父さんは建設に関するあらゆる資格を取って仕事に生かしたのでA君も勉強して資格をたくさん取りなさい。」とも言ったのですが、「自分は、企画や広報をやりたいんです。」ということでそれもしませんでした。人生経験の浅い大学を出たばかりのオニイチャンに、上手な広報や誰もが認めるいい企画など出せる訳がありません。
シティボーイであり続けたA君はとにかく綺麗な仕事をやりたがったのですが、実績など上がるはずもなくしかし給料は古参の従業員の2倍から3倍というものですからこれでは従業員の士気が上がらないのは当たり前です。そのうちにお父さんが亡くなりA君が社長を継ぐことになりましたが、従業員の離反や下請けの造反そして不運も重なってその後10年もしないうちにこの会社は倒産しました。あれほどの威勢を誇った会社の倒産に、その地域の人達はビックリ仰天したと言います。
初代が苦労して大きくした事業で二代目は楽をし、三代目が乞食するとよく言われます。江戸時代当時、書道に中国の書風の“唐様(からよう)”というのがありました。お金持ちの子弟が好んで習ったと言います。二代目が楽をした結果事業が傾き三代目は自分の住まいを売りに出さざるを得なくなって「売り家」と、自分が習っていた唐様で書いた札を軒下に下げる場合があったことから川柳に「 売り家と 唐様で書く 三代目 」というのができました。「売り家」という字が唐様の見事な筆跡であるだけになおさら哀れを誘ったことでしょう。
倒産後すでに誰もいなくなったA君の家の前を通ったとき墨痕鮮やかに大きく「売り家」と書かれた札がぶら下がっていましたが、それが唐様だったかどうかは分かりません。
優柔不断の柳吉が、実家である維康商店の跡取り息子ということをごり押しして二代目経営者に収まろうとしなかったのは大正解だったのです。
「 楽しみは 春の桜に 秋の月 夫婦仲良く 三度食う飯 」というのは江戸時代の五代目市川團十郎(当代團十郎のご先祖様です。)の名言です。
贅沢な暮らしはできないまでも惚れぬいた蝶子と一緒に、喧嘩しながらでも添い遂げて一生を全うすることは幸せなことです。会社経営の厳しさを味わうこともなくまたその果ての倒産の憂き目にもあうことなく、平々凡々と暮らす選択をした柳吉・蝶子に拍手です。