「砂の器」 その三 

今西刑事の捜査が東京のほかにも北は秋田県から山梨県・石川県・三重県・大阪府・島根県とかなり広範囲にわたりその都度鉄道で移動します。この映画には昭和49年当時の日本の原風景と共に、運行していた汽車や、その当時の駅舎が駅前の店々の日々の営みと共にそのままいわば動態保存と言ってもいいように映像として記録されています。私は鉄道ファンではありませんが、この映画は鉄道好きにとってはたまらないであろう貴重な記録映像としての存在価値も見逃すことができません。

映画は今西刑事と部下の吉村刑事が捜査のためにはるばるやってきた秋田県の羽後亀田駅の改札口を出て駅前の食堂で天丼を食べるところから始まります。捜査を終えての帰りの汽車は羽後本庄駅から急行“鳥海”に乗換えて朝6時43分上野に到着するまで列車内での会話や出来事・車窓風景も含めて丹念に描かれています。

その後も山梨県の塩山付近の中央線、鳥取駅から乗る急行“まつかぜ”、島根県しんじ(宍道)駅から“木次線備後落合行きを待つ”のテロップ、木次線いずも三成駅、島根県亀嵩驛(かめだけえき)、三重県二見浦駅、石川県金沢駅から山中駅へ、滋賀県米原駅などが昭和49年当時の姿で駅舎やプラットホームが映し出されています。これらの古臭い木造のしかしどこか懐かしい駅舎の多くは、平成の今となってはとっくに新しい近代的な駅舎に建て替えられているはずです。亀嵩驛に至っては“駅”ではなく昭和49年当時でも古い字体の“驛”が使われていました。

このように丹念に鉄道を描いているのは、映画「男は辛いよ」の(鉄道好きの)山田洋次監督がこの「砂の器」の脚本を担当していたのが影響しているものと思います。寅さんも移動はほとんどが鉄道とバスでやはり丁寧に汽車や駅舎・プラットホームを描き出していました。この二つの映画は鉄道という視点からながめてみるのも悪くないかもしれません。

本浦千代吉親子が流浪の末この亀嵩驛の前によろよろと辿り着くシーンはほんの10秒前後の短いものですが、その後のすべての悲劇的事件はここから始まったと言っても過言ではなく映画「砂の器」にとっては大切な場面だと私は考えています。(但し原作にはありません。)千代吉親子が亀嵩に来なければ、心優しい三木巡査によって保護されなければ、或いは秀夫が著名な音楽家にさえならなければ、その後の悲劇はなかったのです。つくづく“宿命”を感じざるを得ません。映画の中で和賀英良は、それらの気の遠くなるような偶然の連鎖を踏まえて交響曲“宿命”を作曲したのです。それは彼でなければ創りえなかった、血の叫びの音楽だったのです。

原作で違和感を覚えたのが一つだけあります。それは和賀英良が普通の音楽家ではなくて電子機器を駆使して音楽を作るという昭和36年当時の全く新しい最先端の電子音楽家という設定で、松本清張の原作ではこの電子機器を使って和賀英良による三木元巡査殺しを知る人を誰にも知られぬように殺すというものです。電子機器を使った武器開発の研究者ならまだしも、一介の電子音楽家が容易にしかも警察にもわからないように殺人など犯せるものではないように思います。映画では電子機器を使った殺人の場面はなく、事件を知る島田陽子(昭和28年生まれの彼女、映画公開当時21歳!ホントに綺麗でした。)扮する愛人高木理恵子が流産で死んでしまうという和賀英良にとって誠に都合のいい設定になっています。

「砂の器」という長い物語の最後の部分も松本清張の原作と野村芳太郎監督の映画とでは大きく異なったシーンになっています。

原作では和賀英良がフィアンセやその父親らから盛大に見送られて羽田空港からアメリカへ向けて飛び立つ直前に今西刑事らに実際に逮捕されるところで終わりますが、映画では和賀の渡米直前の演奏会が終わるのを待って今西刑事と吉村刑事が逮捕に向かうところで映像は終わり逮捕のシーンはありません。どのような逮捕劇だったのか、一瞬にして事態を悟った和賀の暗い絶望を加藤剛がどう演じたか、事態を呑み込めないながらもフィアンセ田所佐知子の驚愕を山口果林はどう表したか、その父親の有力政治家田所元大蔵大臣は自分の政治生命にすぐ思いを馳せたに違いない動揺と恐怖を佐分利信がどう見せたかなどなど興味は尽きませんが、あえて観客の想像に任せようとした野村芳太郎監督の考えだったものと思われます。こちらの方が様々な想像を膨らませることができ、余韻を持たせた終わり方で原作よりずっといいような気がします。 

“私は、あんまり映画は見ないんですが”と言い続けてきたにもかかわらず「いやあ!映画って本当にいいもんですね。」と水野晴郎さん調に。

「それではまた次回をお楽しみに、さよなら、さよなら、さよなら」と淀川長治さん調に締めくくることにしましょう。