( 盛綱陣屋 その一 )

平成313月歌舞伎座夜の部は明和6年(1769年)初演の「近江源氏先陣館 八段目」の“盛綱陣屋(もりつなじんや)”でした。この狂言は鎌倉時代の設定ですが徳川家康が豊臣秀頼を攻めた大阪の陣を素材にしており、芝居に出てくる佐々木三郎兵衛盛綱と四郎高綱は史実の真田信幸・幸村兄弟をモデルにしており、北条時政は徳川家康を、源頼家は豊臣秀頼をモデルにしています。

江戸時代に発展した歌舞伎は時の徳川幕府に遠慮して徳川家に少しでも不利になることは上演することができない為、時代設定や登場人物の名前などを変えて上演することが常でした。そのようにしておけば幕府も芝居にケチをつけることができなかったのです。知的レベルが高く歴史にも造詣が深かった江戸や大阪の観客もこのことをすぐ理解し、自分の頭の中で史実の人物や時代設定を容易に置き換えて舞台を楽しんだのです。 

盛綱・高綱兄弟が北条(徳川)方と源(豊臣)方に分かれて争う中、源頼家方の軍師佐々木高綱(モデルは真田幸村)は自分が死んだと思わせる計略から自身の一子小四郎をわざと敵方の北条の捕虜にします。北条時政(モデルは徳川家康)の家臣佐々木盛綱(モデルは真田信幸)は弟高綱(モデルは真田幸村)の武士道を立たせるために母親の微妙(みみょう)に甥の小四郎殺害を依頼しますが折から高綱戦死の報が入ります。北条時政の命令で高綱の首が本物かどうか首実検をした兄盛綱はすぐ偽首と見破りますが計略通り父親戦死に絶望してその後を追うと見せかけて切腹したまだ10歳にもならない小四郎のけなげさに感じ入り、「高綱の首に相違ない」と時政に言上する(もうこれだけで時政に対する反逆です!)という複雑な心理表現のお芝居です。

舞台の盛綱・高綱が史実は信幸・幸村兄弟でさらに大阪の陣の時代背景がわかってこの“盛綱陣屋”というお芝居を見ると、幼い小四郎が父親高綱の計略成就のために自ら死を選ぶという辛い決断と盛綱やその母親微妙がそれを悟った悲しい胸のうちが伝わってきて観客の心を打ちます。

見巧者(みごうしゃ)という表現があります。芸を見慣れた、目の肥えた観客のことでいわばお客の玄人とでも言ったら分かりやすいでしょうか。お芝居の最中にここぞという場面で「松嶋屋!」とか「中村屋!」と大向こうから声をかけられる人でもあります。これは見巧者でないとなかなか難しいのです。少しでもタイミングが外れるとお芝居が台無しになるからです。私も歌舞伎の舞台の演者に向かって一生に一回ぐらい「音羽屋!」などと声をかけてみたいのですがまあ無理ですね。見巧者にとまではいかなくても何とか近づく努力をして知識を少しずつ増やしながらお芝居を見ると理解が深まり面白味も当然に増すような気がします。のべつ笑うのではなくちゃんと面白いところで笑えるようにもなりますね。

“盛綱陣屋”は予備知識がないとさっぱり訳の分からないお芝居に感じるはずですが、初演から250年以上も練り上げられてきた人気演目なのですから面白くないわけがないのです。 

今回佐々木四郎兵衛盛綱を演じたのが当代15代目片岡仁左衛門丈です。弟高綱や甥の小四郎を思いやる苦衷がにじみ出てくるような演技に感動を通り越して呆然とする思いでした。

歌舞伎俳優を紹介する名鑑には仁左衛門丈について「現代の歌舞伎界を代表する演者の一人で華やかな容姿と深い解釈、溢れ出る情味や色気、愛らしさ、卓抜した表現力も美点だがもはや演じるというより役として作品世界に生きているそんな境地に達した役者だ。」と最大級の賛辞を送っています。まったくその通りですね。前名“片岡孝夫”と称していた頃から容姿端麗で優しい二枚目で映画やテレビにも引っ張りだこで歌舞伎以外のファンも多くいた仁左衛門丈ですが、昭和19314日生まれですからつい先日75歳となられて“後期高齢者のお仲間入り!”をしたことになります。ハーーーッ、溜息しか出ませんね。