私はあまり漫画を見ないので知らなかったのですが、漫画家みなもと太郎さんの「風雲児たち」という歴史漫画が昭和54年から雑誌に連載が始まり関ケ原→江戸時代の先駆者たち→幕末本編の三部作として構成されて連載開始から40年に達した今ようやく幕末に突入しているんだそうで、まだまだ完結は先の話のようです。この漫画を演出家三谷幸喜さんが愛読しているということでその超長編漫画のうち大黒屋光大夫のロシア漂流記の部分を“月光露針路日本(つきあかり めざす ふるさと)”という外題でなんと歌舞伎舞台化してくれて令和1年6月の歌舞伎座で公演されました。
粗筋は天明2年(1782年→明治維新まであと86年です。)伊勢を出発して江戸へ向かう神昌丸が駿河湾で嵐にあって遭難、8ヶ月の漂流の後に当代松本幸四郎扮する船頭大黒屋光太夫が仲間17人と共にロシア領アリューシャン列島アムチトカ島に流れ着きます。そして皆で力を合わせて伊勢に帰るという強い決意のもと様々な困難を乗り越えてカムチャツカ→オホーツク→ヤクーツク→イルクーツク→モスクワ→サンクトペテルブルグまで気の遠くなるような努力の末に9年かけて辿り着きます。そして当時のロシアの女帝エカテリーナ二世に謁見、日本への望郷の思いを伝えて遂に帰国を許されます。仲間は相次いで病死、事故死、発狂などで減っていきしかもキリスト教の洗礼を受けてロシアに残る者まで現れますがとうとう遭難後10年にして生き残った光大夫・磯吉・小市の3人だけがロシアの船で根室の港に入ることになります。しかしその直前小市は大好きだった富士山を見ることなく息絶えるところで幕となります。
このお芝居は大黒屋光太夫のロシア漂流や歌舞伎の知識がなくともするりと入っていける珍しい歌舞伎作品だと思います。三谷幸喜流のギャグが随所にちりばめられてしかも松本白鸚、幸四郎、染五郎の高麗屋三代、そして猿之助、愛之助、松也といった人気役者のほかに歌舞伎役者ではない八嶋智人がキリル・ラックスマン(ウワー大学受験時代以来聞くことのなかった懐かしい名前を45年ぶり!で目にしました。)役で出演して軽妙な笑いと演技で観客を沸かせていました。
当事務所のお客様が先日初めて歌舞伎を観に行ったところ運よくこのお芝居に当たったために「イヤー歌舞伎ってわかりにくいイメージでかなり構えて見るものだと思ってましたがこんなに分かりやすくって面白いものだとは意外でした。これから毎月見ようと思います。」と興奮気味に語ってくれました。
“三谷かぶき”と銘打ったこのお芝居はこれまでの歌舞伎の概念を超えた肩の凝らない作品に仕上がり、観客に作者の思いを分かりやすく伝えることのできた稀有の作品だからこそ歌舞伎初心者にもすんなりと受け入れられたのです。幸運としか言いようがありませんね。もし何の予備知識もなく初めて観る歌舞伎が難解なお芝居(かなり多い。)だと「やっぱり歌舞伎はわっからなーい!」と一生歌舞伎から遠ざかってしまうことになりますが、歌舞伎デビューがこの“月光露針路日本”だと「歌舞伎ってこんなに面白いものなんだ!」と多くの人が感じてリピーターになってもらえますから歌舞伎座にとってもいいことです。
物語りやお芝居大好きだった私は小学校低学年からテレビの劇場中継を熱心に見ていて、今思うと目も眩むような名優の演技をそれとは知らずに(豚に真珠、猫に小判、私の家内に私?????)単純に楽しんでいたのですが、その私の歌舞伎デビューが東京在住の弟に招待されての平成2年6月の“下天は夢か”でした。織田信長の生涯を描いたこの作品は当時津本陽原作で日経新聞に連載されていましたからストーリーは頭に入っておりお芝居そのものも分かりやすく構成されていたので、先述の当事務所のお客さんの歌舞伎デビュー時の感想そのものでした。そしてそこからその後の長い歌舞伎座通いがスタートしたのです。これがもし極めて分かりにくいお芝居だったらおそらく歌舞伎は見なかったものと思いますので“下天は夢か”が私の歌舞伎初体験でラッキーでした。ご縁があったというべきかもしれません。
私が舞台を初めて観たのは昭和56年ごろ宮城県民会館での“南の島に雪が降る”でした。しかし昭和時代に見たお芝居は記録を残しておらずパンフレットや筋書本も買わなかったので観劇の日にちや配役、劇団名などはすべて忘れ果ててしまっています。克明に記録を取り筋書本なども大切に保管するようになったのは上記の“下天は夢か”からでしたから、それ以前に見たお芝居の詳細はほとんど記憶に残っていないのは大変に残念なことです。お芝居を見る時は、是非パンフレットや筋書本などを入手・保管しておくようお勧めします。