( “盲目物語” その三 )

歌舞伎では一つのお芝居の中で二役を勤めることが少なからずあり、しかも例えば“仮名手本忠臣蔵”のように大星由良助(おおぼしゆらのすけ→大石内蔵助)と高師直(こうのもろのお→吉良上野介)という仇敵同士を一人の役者が両方演ずることも珍しくありません。役者にとって感情移入など役作りの上でこのようなことは極めて難しい事のようで、世界の演劇ではほとんど見られないそうです。

私は“盲目物語”を平成9年と17年の二度歌舞伎座で見ていますが、平成9年の時はお市の方とその長女淀の方を当代坂東玉三郎丈が二役で勤めました。因みに幼いころのお茶々は18代目中村勘三郎丈長男当時16歳だった勘太郎(現勘九郎)が勤めていました。娘というものは若いうちはともかくも年齢を重ねると母親に似てくることが多いので(若作りの)化粧の工夫は必要であるものの母と娘の二役は、仇敵同士の二役に比べれば適しているかもしれません。

ところが平成17年の舞台では淀の方を中村七之助が勤めました。18代目中村勘三郎丈の次男で女形ですからもちろん悪くないのですが、やはり玉三郎丈扮する母親お市の方の面影は全くといっていいほど感じられず、少しだけ違和感を覚えた記憶があります。

座頭弥市と羽柴秀吉を、平成9年と17年のどちらの公演の際も18代目中村勘三郎丈が勤めました。これは昭和30年東京宝塚劇場で“盲目物語”が初演されるとき17代目中村勘三郎丈が、最初は座頭弥市一役だったのですが、羽柴秀吉役に適当な役者がいなかったので17代目が自らかって出て二役になったのだそうです。しかしこの二役は大詰めで秀吉が乞食たちに施しをするシーンの際、乞食たちの中に弥市も混じっていることで芝居構成上困難をきたします。

そこで17代目扮する秀吉が乞食たちに金を恵んで舞台上手の駕籠の中に入るや駕籠の底が開いていてそこから17代目が抜け出し秀吉の扮装をした別の役者が観客から見えない様に駕籠に収まります。観客にはわからないように駕籠の中の役者が入れ替わるのです。あとはご丁寧に声だけ17代目の声色を使ってさもその駕籠の中に秀吉がいるかのように見せかけている間に大急ぎで座頭弥市の扮装に早変わりし、舞台下手から乞食の中に紛れて17代目扮する弥市が現れるという仕掛けです。観客はもうビックリしてちょっとしたどよめきが起こり拍手喝采です。因みにNHKの元アナウンサーの山川静夫さんが初演の際に17代目勘三郎丈の声の吹き替えを勤めたとのことでした。その後は本人が秀吉のセリフを吹き込んだテープを使ったりしたようです。

お市の方に激しい恋心を抱く二人の男は、片や天下人にまで上り詰め、片や乞食にまで落ちぶれ果てるのですが、その両極端な二人の役を一人の役者が演じ分けるのはかなり難しいものだということは容易に想像がつきます。17代目・18代目中村勘三郎丈という名優だからこそ演じ分けられたのだと思います。

お市の方を思い続ける秀吉と弥市は同じ(ような)顔をした男だったという、いわば文字に頼る小説ではどんなに精緻な文章であろうとも表現できないことを舞台では顔の表情や所作も含めてビジュアル的に或いは立体的な動作により観客に訴えかける見事な演出になりました。