( “紙屋町さくらホテル” その四 )

どの劇場のお芝居でも必ずと言っていいほど1,000円程度で筋書本がロビーで販売されており、筋書のほかに時代背景や俳優のプロフィルなど様々な情報が満載されて観劇の手助けになります。“紙屋町さくらホテル”上演のときもこまつ座発行の(季刊)the座という冊子に“紙屋町さくらホテル”の特集が組まれており当然購入しました。舞台そのものも充分衝撃的かつ感動的だったのですが、この50ページほどの冊子に書かれた内容もそれに劣らず衝撃的なものでした。

昭和2086日午前815分、原子爆弾という名の新型爆弾が広島上空で炸裂しさくら隊の宿舎は崩壊、9人の隊員たちは生き埋めになりそのうち5人が即死します。

隊長の丸山定夫は重傷を負いながらも宿舎を脱出、東京から急ぎ救護に駆け付けた元さくら隊員と再会を果たします。丸山は「こんなにやられて何故日本は手をあげないのかなあ。」と語ったと伝えられています。そして終戦、「ガン(丸山)さん戦争終わったよ。」の声にも反応はなくその翌日の816日名優丸山定夫は亡くなります。

園井恵子も即死はしませんでした。生延びて支援者の家に駆け込み「助かったのよ、私助かったのよ。これからは思いっきり芝居ができる。」と嬉しそうに語り、終戦2日後の817日に東京に住む母親のもとに「東京へは今月末に参ることにしましょう。お会いしたくてたまらなくなりました。本当に九死に一生とはこのことです。健康に立ち返る日も近いでしょう。そうしたら元気でもりもりやります。やり抜きます。」との手紙を書いています。そしてその手紙を書いた4日後の821日、岩手県松尾村出身の国民的スター園井恵子も母親に再会することが叶わずに亡くなります。32歳でした。

さくら隊隊員の仲みどりも即死はしませんでした。宿舎にいた仲みどりは原爆炸裂と共に気絶し意識を取り戻して外にはい出したときは爆風のためかズロース一枚だったといいます。広島では満足な看護も受けられないと判断し東京の母のもとに帰ろうと痛む裸身に破れシーツを身にまとい復旧列車に飛び乗ります。89日夜半東京駅到着、電車で荻窪に住む母親の家に不自由な体を引きずりながらやっとの思いで辿り着きます。何という強靭な精神力・体力だったのでしょうか。母親に会いたいという一心だったのでしょう。母親は目の前に現れた娘を見て(新型爆弾で死んだとあきらめていたでしょうから)きっと夢か幽霊かと思ったに違いありません。この時どんなにか感動の再会だったかと胸が熱くなります。母親はすぐ傷口に(気休めにしかならないことはわかっていたのでしょうが)マーキュロを塗ってやったといいます。

816日女優復帰のために東大都築外科病院に入院するも容体急変し、24日被爆から19日目に亡くなります。感動の再会を果たしたばかりの母親の悲嘆如何ばかり。死の一時間後解剖され、放射線物質を強く作用させた症状であることが判明して俳優仲みどりは公式に「原爆症第一号」と呼ばれることになります。

このような目も眩むようなエピソード満載の冊子です。舞台を見るだけでなく筋書本をしっかりと読むことが、さらなる芝居の理解につながるものと思います。

上記のようなエピソードに少し脚色を加えれば(素人考えでは)さらにお芝居の幅が広がるものと思うのですが、井上ひさしさんはそれをしませんでした。観客の想像に任せようとしたのかもしれません。いや芝居にするとあまりにも身も蓋もない悲惨な印象しか観客に与えないから敢えて入れなかったのかもしれません。

原子爆弾で亡くなったさくら隊の、仲みどりさんも含め9人の隊員たちの冥福を改めて祈るほかありません。

合掌